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ナチス虐殺犠牲者事業会の理事長「麻生発言、ドイツなら政治生命の終り」

ナチス虐殺犠牲者事業会の理事長「麻生発言、ドイツなら政治生命の終り」

Posted August. 24, 2013 05:10,   

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ベルリン市内の中心街にある犠牲者追悼施設。

17日午後、ベルリンの中心にあるブランデンブルク門とドイツ連邦議会議事堂から歩いて5分ほどのところにある広場には、波打つように2700個ものコンクリートの塊が置かれていた。ここは、2005年に終戦60年を迎えて米国の建築家ピーター・アイゼンマンが設計したユダヤ人ホロコースト記念館だ。

「石墓」を訪れた多くの観光客は、厳粛な面持ちで墓碑の間を歩き、瞑想した。歩いていると、石がいつのまにか人の背よりも高くなり、ユダヤ人ゲットーや強制収用所に閉じ込められたような陰うつな気持ちになった。

ナチスの犠牲者はユダヤ人だけではなかった。ゲルマン民族の血を汚す不純な者とされた同性愛者は、胸に三角形の識別胸章(Rosa Winkel)をつけて強制収用所に監禁され、ジプシーも50万人が犠牲になった。ブランデンブルク門の近くにあるティーアガルテンの中に、2008年、同性愛者虐殺犠牲者の追悼施設が建てられ、2012年にはジプシー犠牲者記念館が建てられた。2014年には、ベルリン・フィルハーモニー・ホール付近にナチスによって殺害された障害者を追悼する記念物が建てられる予定だ。

このように、ベルリン市内の中心街に建てられる追悼施設は、ドイツ連邦国会議長が会長を務める「ナチス虐殺犠牲者追悼記念事業会」が管理する。16日午前、追悼事業会理事長のウーベ・ノイベルガー氏に会った。ノイベルガー氏に、統一後にベルリンに追悼施設を建てた背景を尋ねた。

「1990年代初期に、東欧圏が崩壊し、旧ソ連が解体し、ユーゴ連邦が解体し、すべてが解体した。しかしドイツだけが統一し、人口と面積が増えた。強大になったことで、ドイツが過去のナチス時代に回帰するのではないかと世界の人々が憂慮した。統一後、国会で最初に決定されたのがナチス犠牲者追悼施設の建設だった。ポーランドのアウシュビッツなど外国には追悼施設が多いのにドイツにはないという反省も起こった」。

東西ベルリンを分けた壁が撤去され、壁周辺の巨大な土地がベルリン市の所有になった。ブランデンブルク門とドイツ連邦議会議事堂がある中心街を商業地区に開発するという計画もあった。そうしたなら、ベルリン市は天文学的な開発利益を得ただろう。しかし、ドイツはその場所に追悼施設を作ることを決めた。

中心街に建てられた記念碑の中で最も目につくのは、ドイツ連邦議会議事堂前の共和国広場に設置された、ナチスに殺害された議員の追悼碑だった。記念碑には、ワイマール共和国の民主憲法を守るためにヒットラーに抵抗して命を失った議員96人の名前と所属政党、死亡年度などが記されている。この記念碑は、日本の麻生太郎副首相が誰にも気づかれずに憲法を変えたナチスの手口に学ぶべきと言ったその手口がどれほど残忍で暴力的であったかを雄弁に物語っている。

ノイベルガー氏は、「もしドイツ内で政治家が麻生副首相のように軍国主義を美化する発言をしたとすれば、その日で政治生命は終わる。正常な国家では想像もできない考え方だ」と批判した。

ベルリン市内にはこのほかにも、ポーランド犠牲者記念館、レジスタンス博物館、安楽死犠牲者追悼館、死の列車記念物など、ナチス関連施設が約40にのぼる。

ドイツでは、日本の靖国神社のように戦犯を追悼する施設は見あたらない。ドイツ政府は昨年、1級戦犯ルドルフ・ヘスの墓がネオナチ青年たちの聖地になっているという理由で墓地を撤去した。オーストリア北部レーオディングにある教会墓地でも、ネオナチがヒットラーの親のアロイスとクララの墓地を頻繁に訪れていたため撤去した。

ベルリン国会議事堂からわずか数百メートル離れた、ヒットラーが自殺した最後の地下壕も、「誇らしい遺跡」ではなかった。この地下壕は、ベルリンの壁が崩壊した後、比較的完全な状態で発見されたが、近隣地域が住宅街に再開発された後、数十年間一般に公開されなかった。ドイツ政府は、ネオナチの聖地として崇められることを憂慮して何の表示もつけなかった。2006年のW杯ドイツ大会の前に小さな表示板が設置された。18日、観光ガイドに案内された少数の観光客しかいなかった。

日本では想像もできない風景をドイツではすべて日常的に目にすることができた。もし日本がこのように心から反省し、謝罪するなら、欧州連合を率いるドイツのようにアジアで中心的な役割を果たせるのではないかという「非常に非現実的な想像」をさせる場所だった。