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[社説]民・軍・政府が結束し、北朝鮮の挑発を制圧しよう

[社説]民・軍・政府が結束し、北朝鮮の挑発を制圧しよう

Posted December. 21, 2010 08:39,   

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大韓民国軍が20日、延坪島(ヨンピョンド)の近隣海域で実施した射撃訓練は、西海(ソヘ・黄海)5島と領海守護の意志を対内外に示し、北朝鮮の挑発を容認しないという決意を確認した。韓国軍が、西海上の北方限界線(NLL)以南の韓国水域で実施する通常の訓練に、世界の耳目が集中したのは、11月23日の北朝鮮による延坪島砲撃のためだ。射撃訓練は無事終了したが、北朝鮮の挑発の可能性が残っているため、軍は一時も警戒を緩めてはならない。

韓国軍は20日、K−9自走砲と105mm牽引砲、バルカン砲、60mmと81mm迫撃砲を動員し、延坪島西南で砲弾を発射した。政府は、18日から21日の間に、射撃訓練を実施すると予告し、米国、日本、中国、ロシアにも通知していた。通常の射撃訓練だが、北朝鮮の軽挙妄動を防ぐために、周辺大国に予告し、訓練を準備したのだ。

北朝鮮は、対南宣伝機構を総動員して、「射撃訓練をすれば核戦争につながる」という極言もはばからなかった。ミサイルに装着できる核を保有しているかどうかも疑わしいが、それは、金正日(キム・ジョンイル)政権の最後を、自ら用意することだ。韓国軍の射撃訓練は、核戦争の脅迫まで持ち出し、NLLを無力化しようとする金正日集団の攻勢を遮断したという点で、意味が大きい。

北朝鮮は、韓国の陸海空軍の定例的な「護国訓練」を、自分たちに対する攻撃行為と難癖をつけ、延坪島挑発を強行した。金𨛗鎮(キム・クァンジン)国防長官は、「北朝鮮が挑発すれば、自衛権行使を通じて、敵の威嚇の根源を除去するまで強力に報復する」と何度も誓った。李明博(イ・ミョンバク)大統領も、「多大な報復」をすると国民に約束した。北朝鮮が再び挑発すれば、挑発の原点を破壊しなければならない。

北朝鮮は、韓国軍の射撃訓練に合わせて訪朝しているリチャードソン米ニューメキシコ州知事に、国連核査察官の復帰許可の方針を伝えた。昨年4月に追放した国際原子力機関(IAEA)査察官の復帰を許可するという意味と解釈される。北朝鮮はこれまで、思いのままIAEA査察官の追放と復帰を繰り返した。北朝鮮は、09年4月に査察官を追放した後、1ヵ月後に2回目の核実験を実施した。今回も、望むだけ核開発を進展させた後、国際社会の警戒心を解き、韓国の混乱を煽るために、査察官カードでいたずらをする可能性が高い。政府が、「北朝鮮が望む場所を見せるといったやり方の査察官復帰は、特に意味がない。平和的に核を開発するという主張に利用される可能性がある」と指摘したのは、適切な対応だ。

ロシアは19日(現地時間)、緊急招集された国連安全保障理事会で、北朝鮮の延坪島挑発については言及せず、南北に自制を求めた。ロシアは、北朝鮮の延坪島挑発の際は沈黙し、韓国軍の射撃訓練に難癖をつけ、緊急安保理の開催を要請した。別の安保理理事国がロシアを説得し、北朝鮮の延坪島砲撃を非難する内容を、声明に盛り込むことで合意した。しかし、中国だけが15カ国の中で、唯一最後まで反対し、安保理は何の結論もなく終わった。

政府は、北朝鮮の多角的な攻勢と中露の北朝鮮の肩入れに振り回されてはならない。このような時ほど、国民の結束が必要だ。李大統領は20日、「北朝鮮は、国論が分裂した時、韓国を見下げる。堅固な安保というものは、国防力だけにあるのではない。最上の安保は、結束した国民の力にある」と強調した。韓国の国力は、北朝鮮の40倍にもなる。しかし、経済力と国防力がいくら強くても、国論が分裂すれば、安保は動揺せざるを得ない。

野党民主党の孫鶴圭(ソン・ハクキュ)代表は20日、射撃訓練に反対した。孫代表は、国軍や民間人にも、生命と財産の被害が発生する恐れがある点を強調したが、射撃訓練という主権行使の放棄こそ、北朝鮮の脅迫にひざまずくことだ。逆に考えてみよ。韓国が、哨戒艦「天安(チョンアン)」でやられ、延坪島で再びやられたが、今回も、北朝鮮、中国、ロシアの連帯威嚇に臆して、射撃訓練もまともにできないのであれば、北朝鮮の士気だけを上げ、さらなる挑発を呼ぶことになる。

国家安保の危機には党利党略をやめ、与野党が声を一つにしてこそ、国民の不安を和らげることができる。自由先進党の李会昌(イ・フェチャン)代表が、孫代表の発言を「卑怯な敗北主義」と批判したことは正しい。ドイツの侵攻で第2次世界大戦が始まり、英国の戦時内閣の首相になったチャーチルは、初めての議会演説で、「(勝利のために)私は血と苦労と涙、そして汗のほかに捧げるべきものはない」という言葉で、決然たる意志を表現した。与野党指導者は、北朝鮮が挑発すれば国家のために何を捧げるのか、慎重に考えることを望む。