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あの日、あの時間に合わせ、あの勇気を心に刻む

あの日、あの時間に合わせ、あの勇気を心に刻む

Posted June. 16, 2009 07:02,   

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「カン、カン、カン……」「戦闘配置訓練!戦闘配置訓練!」

15日午前11時40分、京畿道平澤市(キョンギド・ピョンテクシ)平澤港の沖合。戦闘訓練を知らせるアナウンスが、次世代高速艇「尹永夏(ユン・ヨンハ)艦」に鳴り響いた。アナウンスとともに、防弾帽と防弾衣、防毒マスクをつけた将兵らが、艦艇内を忙しく動いた。船の後方に走って行った2人の弾薬兵は、40ミリ艦砲に向かった。そして、砲身を左右に動かし方向を合わせ、角度を上げ、照準と発射準備を終えた。艦砲の前には、140キロ離れた敵艦でも、打撃を与えるための対艦誘導弾「海星(ヘソン)」が空の方向に向いていた。また、艦艇の前方にある76ミリ艦砲も、敵を捜し照準を合わせていた。操縦室では、艦長のアン・ジヨン少領(39)の指示と操縦士の報告が続いた。

午後1時。アン少領が「戦闘配置を解除せよ」と命令を下した。やっと、将兵らは緊張した肩の力を抜き、防弾帽を脱いだ。失われていた笑顔も取り戻した。

同日、尹永夏艦の機動・戦闘配置訓練は、第1次延坪(ヨンピョン)海戦10周年を迎え、実施された。韓国内初の最先端誘導弾高速艦(PKG)である尹永夏艦は、延坪海戦と関係が深い。艦艇名は、02年の第2次延坪海戦で命を失った尹永夏少領の名をつけた。艦長のアン少領は、99年の北朝鮮軍に勝利した第1次延坪海戦当時、高速艇「チャンスリ325号」の艇長だった。尹永夏艦は最近、北朝鮮の挑発により西海(ソヘ、黄海)で緊張が高まる中、西海の北方限界線(NLL)の最前線に配置された。

訓練に先立ち、午前9時40分、平澤市の第2艦隊司令部では、第1次延坪海戦の戦勝10周年記念式が開かれた。記念式は10年前の同日の戦勝を振り返ろうと、当時の戦勝時間に合わせ、開始された。これまで記念式は、第2艦隊司令部の主幹で行われてきたが、今年は海軍本部が行なった。海軍関係者は、「戦勝の歴史を通して、隙のない軍事態勢を維持し、有事の際の挑発を現場で終結させるという意志を吹き込むためのもの」と語った。

丁玉根(チョン・オククン)海軍参謀総長は、記念式の挨拶で「第1次延坪海戦は韓国戦争後、南北間に起きた最初の正規戦であり、韓国海軍が圧倒的な勝利を収めた海戦だ」と述べた。そして、「『第3の延坪海戦』が、いつでも起こりうることを肝に銘じなければならない。『敵が指一本でも触れれば、敵の手首を切る』という覚悟で敵と戦い、10年前の完璧な勝利の伝統を受け継ぐことを望む」と強調した。

記念式には、第1次延坪海戦時の参戦指揮官や将兵、海兵隊司令官、歴代作戦司令官および第2艦隊司令官と金文洙(キム・ムンス)京畿道知事、地方区議員の元裕哲(ウォン・ユチョル)ハンナラ党議員、鄭長善(チョン・チャンソン)民主党議員らが出席した。第1次延坪海戦の時、第2艦隊司令官だった朴チョンソン予備役所長は、記念式後に開かれたパーティーで、「海戦当時、先制射撃禁止指示で、私たちの手足は完全に拘束され、身動きができない状態で苦労した。」と当時の交戦規則を批判した。また、「左派政権の太陽政策のために、延坪海戦の勝利は大きな自慢であるにもかかわらず、この10年間、まるで罪を犯したかのようだった。当時政府は、戦争は起こらないという宣伝だけをし、油断している間にやられた」と語った。

99年6月15日午前9時28分、西海NLLを侵犯した北朝鮮警備艇の奇襲攻撃で始まった第1次延坪海戦は、韓国海軍の圧倒的な応戦で、14分後の9時42分に終わった。北朝鮮軍は、魚雷艇1隻が沈没し、艦艇5隻が大破、艦艇4隻が破損した。また、北朝鮮軍は、少なくとも約30人が死亡し、約70人が負傷した。一方、韓国海軍は、哨戒艇1隻と高速艇4隻の船体が一部破損し、将兵9人が軽傷を負った。



rews@donga.com