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北派工作員、金ドンソク氏の回顧録

Posted October. 24, 2005 03:03,   

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金ドンソク氏は、「『This man』は、仁川(インチョン)上陸作戦とソウル失地回復のさい、重要情報を提供した私の写真を指差して、ダグラス・マッカーサー将軍が言った言葉だ」と説明した。そして、「北派工作員は、『秘密を墓まで持っていく』という暗黙の了解があるが、数年前の映画『実尾島(シルミド)』で、北派工作員の実情が公になったために、彼らへの補償と評価がしっかりと行なわれるべきだと考えて、本を書いた」と話した。

金氏は回顧録で、「休戦直後の1954年2月8日未明、敵陣に忍び込んだKチームの工作隊員たちが、江原道通川(カンウォンド・トンチョン)付近で、人民軍師団長の李ヨンヒを亡命させ、ヘリコプターで米軍側に引き渡した」とし、当時、隊員として活動したH、J、K氏の実名を紹介した。当時の亡命工作は半世紀もの間、うわさだけで、公式的に発表されたことはなかった。

金氏は、朝鮮戦争で隊員たちが北朝鮮の将軍や佐官級将校6、7人を捕らえて亡命させ、重要情報の確保に貢献したと述べた。

回顧録には、北派工作員たちの活動地域や侵入経路も詳細に紹介されている。金氏は、「第36地区隊は、戦時には北朝鮮軍との最接戦地域に3チームが密かに配置され、月2・3回、侵入工作を行なった。休戦後は、江原道の海岸に撤収して、工作任務を続けた」ことを明らかにした。

また金氏は朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領のエピソードも語った。彼は、「朴正熙と丁一権(チョン・イルグォン)が、満洲で日本軍として勤めていた時、日本が敗北して帰国を急いだが、1945年10月、『親日朝鮮人』という理由で、ソ連軍に逮捕された」と述べた。

2人は、貨物汽車での移送途中に脱出に成功し、当時、朝鮮愛国義勇隊大将だった金氏の助けで、安全に国境を越えて、韓国に帰ることができたという。

これに対して、趙甲済(チョ・カプチェ)元『月刊朝鮮』社長は23日、自分のホームページの掲載文で、「朴元大統領はソ連軍に逮捕されたことはなく、朴正熙と丁一権の2人は、日本の傀儡国である満洲国の軍隊に勤めていたのであり、日本軍として勤めたことはない」と主張した。

金氏は26日、ソウル龍山(ヨンサン)戦争記念館で、娘で中堅歌手の陳美玲(チン・ミリョン、本名金陳美)や金聖恩(キム・ソンウン)元国防部長官、元北派工作員の関係者たちも参加したなか、出版記念会を開く予定だ。

咸鏡北道明川(ハムギョンプクト・ミョンチョン)出身で、陸軍士官学校8期の金氏は、第17連帯11中隊長として韓国戦争に参戦し、1950年9月、陸軍本部情報参謀部所属の米軍連絡将校に発令され、情報分野に関わるようになった。

その後、陸軍情報部隊第1師団地区隊長を経て、1952年から1961年、5・16軍事クーデターまで、第36地区隊の責任者となった。予備役編入後、江原道の三陟・江陵(サムチョク・カンルン)市と京畿道水原市(キョンギド・スウォンシ)の市長、大韓柔道会副会長を歴任した。

米第2師団は2002年、金氏の功労を認めて、部隊内の戦争博物館に、「金ドンソク記念室」を設け、マッカーサー将軍、リッジウェイ将軍、白善鎏(ペク・ソンヨプ)大将とともに、「韓国戦争の4大英雄」に選んだ。

金氏は、娘の美玲氏が華僑と言われることについて、連合ニュースとの会見で、「中国大使と個人的に親交があって、一時、美玲を中国人学校に通わせたことがある。美玲は台湾に1年間留学したこともあるが、このために誤解されたようだ」と説明した。



ysh1005@donga.com