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[オピニオン]「皇太子」の自慢

Posted August. 13, 2005 03:07,   

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1980年8月上旬のある日。当時、ソウル西小門にあった最高裁判所庁舍2階の最高裁判所長官室に、ある最高裁判所判事が入ってきた。彼は、何も言わずに辞表を出した。魂が抜けたかのようだった。コーヒーカップを手にとったが、ちゃんと口につけることもできず、コーヒーを服にこぼした。彼は、自分の行動すら意識できていないようだった。後日、当時の最高裁判所長官から聞いた梁炳晧(ヤン・ビョンホ)元判事の驚くべき姿だ。

◆梁元判事は、辞表を出す直前、保安司令部の西氷庫分室に連れていかれ、3日間にわたってひどい拷問を受けた。朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領を殺害した金載圭(キム・ジェギュ)被告に対する上告審で、内乱目的殺人罪を適用できないという少数意見を出したのが原因だった。12・12クーデター(新軍部による軍事クーデター)で権力を握った新軍部は、金大中(キム・デジュン)内乱陰謀事件の裁判を控え、司法部を掌握するために、手段や方法を選ばなかった。その最初の犠牲者が、3月にこの世を去った梁元判事だった。銃が法に代わる世の中だった。

◆全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の司法府は、受難の連続だった。政治的独立どころか、法論理で政治論理を裏づけることに忙しかった。行政府の一部署という意味の司法部という名をつけても飽き足らず、「死法部」という別称がつけられるほどだった。新軍部の外圧にひどく苦しみ、1981年4月に任期途中で退任した李英燮(イ・ヨンソプ)元最高裁判所長官は、「ふり返ってみると、悔恨と汚辱以外に何もなかった」と、退任の言葉を残した。

◆検事であったが、後に国家保衛非常対策委員会に合流して新軍部の政権を図り、盧泰愚(ノ・テウ)政権では、「皇太子」の名で通っていた朴哲彦(パク・チョルオン)氏が、1981年当時、全大統領の指示で、最高裁判所長官候補たちの「面接試験」をしたと打ち明けた。当時、ある候補は、「大任が与えられれば、判事たちを政府に協力させる」と言ったという。恥ずべき司法府の歴史の断面である。朴氏は誇らしげに話したが、超法規的に司法府を掌握し、揺るがした歴史的責任を、彼はどのようにとるのだろうか。

宋大根(ソン・デグン)論説委員 dksong@donga.com