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「韓国通」米国人たちが語る「私の心に入ってきた韓国」

「韓国通」米国人たちが語る「私の心に入ってきた韓国」

Posted July. 09, 2005 03:00,   

한국어

ケネス・キノネス元米国務省北朝鮮担当官

●「軍隊で強引に…」

1992年、米国外交官として初めて北朝鮮の地を踏んだケネス・キノネス元国務省北朝鮮担当官の「韓国研究」は、軍服務を通じて始まった。アリゾナ大学の1年生を終えてから陸軍に入隊したキノネス元担当官は、モントレイ軍事言語学校に配置された。「外国語学習」という特異な補職が与えられた時、彼の希望はフランス語。しかし割り当てられたのは、未知の難解語である韓国語だった。

1年間の「韓国語との戦闘」を終えた後、情報部隊に配属され、1962年の韓国大統領選挙に際しては、韓国秘密文書の解読業務を行なった。彼は6日のインタビューで、「5・16直後の選挙がいかに堕落していたかをありありと見た」と話した。

1963年、瓦礫の山となったソウルを訪れた直後、韓国語を学んだことを後悔した。しかし、貧困と抑圧の中でも笑いを失わずに未来を楽観する韓国人に会った。

1968年、ハーバード大学進学当時、指導教授は、「韓国史を専攻しても職はないから、中国語か日本語を勉強しなさい」と韓国史専攻を止めたが、彼はきかなかった。もちろん韓国人の夫人に会った影響もある。

ダン・スナイダー・サンノゼ・マーキュリーニュース紙コラムニスト

●取材をして韓国を学んだ

先月末のワシントン情報誌『ネルソン・レポート』には、「米国内の影響力のあるニュースメディア従事者の中で、韓国専門家はワシントンポストの記者を務めたドン・オバードーファー氏と、サンノゼ・マーキュリーニュース紙のコラムニストであるダン・スナイダー氏だけだ」という内容がある。

彼は1970年代末のジミー・カーター政権当時、在韓米国大使を務めたリチャード・スナイダー大使の息子だ。しかし、彼は父親を通じて韓国を知ったのではない。父親が大使を務める時はすでに成人していて、勤務地(ソウル)にはついて行かなかった。

彼は、クリスチャン・サイエンス・モニターの東京支局長として働いていた1985〜90年に日本と韓国を行き来し、報道人の目から韓国を学んだ。特に1987、88年の民主化デモが激しい時は、ほとんどすべての時間をデモの現場で過ごした。

彼は5日の電話インタビューで、「ある日、ソウルのある教会で礼拝を終えた信徒たちが、聖歌隊員の服を着たまま民主化スローガンを叫んで、街に溢れ出たシーンを忘れることができない」と話した。

ピーター・ベック国際危機機構(ICG)アジア所長

●一人旅が人生のターニングポイント

現在ソウルに勤務中のピーター・ベック国際危機機構(ICG)アジア所長は、バークレー・カリフォルニア大学2年生を終えて「何の考えもなく」韓国に一人旅に出て、一生の業を決めたケース。生まれて初めて目撃した1987年5月のデモは、彼にとって衝撃そのものであったという。

彼は帰国するや、専攻を政治学から東洋学に変えた。当時、バークレー・カリフォルニア大学に来ていた漢陽(ハンヤン)大学の李泳禧(イ・ヨンヒ)教授の「韓民族外勢闘争百年史」を聞いた。李教授の回顧録『対話』には、このようなくだりがある。「最近、韓国の新聞が米国と北朝鮮の葛藤に関する米国人専門家の意見を載せているが、あの時私に学んだ米国人学生がよく寄稿しています。私の講義がきっかけになって、卒業後に韓国に来て勉強し、戻ってから学位を取ったピーター・ベックという若者です。優秀な韓国学の弟子を一人養成したわけです」。

彼は、1967年生まれである自分を「85学番386」と自任する。3月には、統一部の統一政策評価委員に委嘱された。ほとんど韓国人と同じだと彼は自分を評価する。彼は「私の姓はベック(Beck)で白(ペク)ではない」と冗談を言った。



srkim@donga.com