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「パソコン産業」切り開いたベンチャー神話第1号

「パソコン産業」切り開いたベンチャー神話第1号

Posted May. 20, 2005 23:24,   

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1981年1月、ソウル清渓川(チョンゲチョン)のある事務室。鉄板を曲げて作った四角い箱を囲んで人々が集まった。箱の上にはモニターの代わりにテレビが載せられていた。

三寶(サンボ)コンピューターの「SE8001」。国内最初の個人用コンピューター(パソコン)だった。

この製品を作った人は李竜兌(イ・ヨンテ)三寶コンピューター名誉会長。李名誉会長は「情報化の伝道師」であると同時に韓国最初のベンチャー企業家に数えられる。

経営難の末に18日三寶コンピューターが法廷管理を申請すると、それを残念に思う人が多い。三寶コンピューターの25年は、韓国ベンチャー企業の歴史であると同時に韓国パソコン産業の歴史だからだ。

●三寶コンピューターの25年

李名誉会長が三寶コンピューターを設立したのは1980年7月だった。事業資金はたったの1000万ウォン。パソコンという用語さえ耳慣れない時代だった。

李名誉会長が作った二番目のパソコンはデザインに気を使っており、アップル用ソフトウェアを使うことができるようにした。この製品は1981年11月カナダに輸出された。国産コンピューターでは初の輸出だった。

三寶コンピューターは1980年代、三星(サムスン)、金星(クムソン、現LG)、大宇(テウ)、現代(ヒョンデ)など強力な大手企業に対立して、パソコンマーケットーシェア1位を守った。技術力が武器だった。

1990年代に入ると、「グループ」という言葉が相応しいほど社勢が大きくなった。ナレー移動通信とトゥルネットなど30社余りの系列会社を抱えた。

しかし、直ちに危機を迎えた。パソコンに続いて、力強く推し進めたポケットベル(無線呼出機)と、シティーホン事業が携帯電話の登場で沒落した。通貨危機を経て1998年には不渡り直前まで追い込まれた。

李名誉会長はこの危機で経営者的な手腕を発揮した。

1998年11月、三寶コンピューターは米国で超低価コンピューター「イーマシンズ」を発表した。販売価格は499ドル。当時の一般製品の半分もしない水準だった。

イーマシンズは突風を起こした。IBM、エイサー、アップル、ゲートウェーのような早々たる企業を順に追い抜いて米国市場シェア3位まで上がった。このような実績を土台に1999年にトゥルネット、2000年にイーマシンズを米国ナスダックに上場した。

しかし2000年が頂点だった。

超低価パソコンの神話はブーメランになって帰ってきた。パソコン産業が単純組み立て産業に転落し、台湾と中国業界の低価攻勢に歯が立たなかった。

2000年4兆ウォンにのぼった三寶コンピューターの売上げは、去年2兆1812億ウォンに減少した。営業損失も234億ウォンだった。

●情報化の伝道師

李名誉会長はソウル大学物理学科を卒業して、米国ユタ大学で統計物理学を研究した理工系出身の経営者だ。1970年代、韓国科学技術研究院の電子計算機運営室長のときに情報化に目覚めた。

李名誉会長は「私は情報化のための伝道師役を果たしてきた。伝道師は聞く耳を持たない人々に自分が信じていることを勧めるのが任務」と話したりした。

三寶コンピューターを創立させた企業家だが、DACOMの初代社長、韓国電子取引振興院の理事長、韓国情報文化センター理事長、企業情報化支援センター理事長など、国内情報通信界の重要なポストをあまねく経てきた。

情報通信部長官候補に取り上げられたことも何回であり、政策作りにも重要な意見を出してきた。「ソフトウェア人材200万人養成論」は彼の代表的な持論だ。

法廷管理申請後、三寶コンピューターは再起することができるのだろうか。少なくとも技術力と流通網は依然として健在だ。

しかし、韓国最初のベンチャー企業家は、もう神話として残ることになった。



smhong@donga.com