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[オピニオン]供養米三百石

Posted May. 20, 2005 23:32,   

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ある大学の入学試験の論述問題だ。「供養米の三百石のために印塘水に身を投げた沈清(シム・チョン)の事例を挙げ、自殺の類型と解法を提示せよ」。受験生たちがどのように書いたかを知る術はないが、このような内容の答案もあるかも知れない。「目の見えない父親を置いて、一人で死ぬのが果たしていいことか。確実に目を見えるようになるという保証もない。世話をする人がいなく、父親が事故に遭う可能性もある。いかなる名分があっても、子が親を置いて命を捨てることは親不孝だ」。

◆しかし、このような答案は多くないだろう。「沈清伝」は、「孝」を象徴する古典であり、主人公の沈清は、孝行娘の代名詞だ。父親の目が見えるように、竜王の生け贄になることは誰にでもできる選択ではない。そのような犠牲があって、ついに沈清は王妃になり、盲人の宴に出席した父親は目が見えるようになった。小説の所々に孝を強調する儒教思想と因果応報の仏教思想が流れる。

◆「沈清伝」の孝思想を今日に活かしているのが、全羅南道谷城郡(チョンラナムド、コクソングン)だ。毎年秋に「供養米三百石集め」行事を行ない、集まった米を売って翌年夏から60歳以上の視力障害の低所得の老人たちの開眼手術を実施する。行事の時には、供養米が山のように積まれ、米の代わりにお金を送ってくる住民や出郷した人々も少なくないという。このようにして、01年から昨年までに集まった基金が約1億4000万ウォン。これまで、緑内障、白内障などで苦しんでいた老人約500人が光を取り戻し、今年は300人が手術を待っている。

◆米の開放問題で農民たちが敏感になっているが、米は私たちにとって依然として情のあふれる食品だ。寺には常に供養米があふれ、誰もが持って帰れるように米びつが置いてある聖堂も少なくない。故郷の母親が作ってくれた米のご飯は、見るだけでお腹が一杯になる。そのような米が集まって、いまや老人たちに新しい世の中と希望を与えていることを聞いて、心が豊かになるようだ。米への人心が深い人、あなたはすでに沈清である。

宋煐彦(ソン・ヨンオン)論説委員 youngeon@donga.com