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[オピニオン]開発中毒症

Posted March. 28, 2005 00:21,   

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開発が至上課題だった時代があった。経済開発、国土開発が「国民の使命」であり、「××開発社長」という名刺を配る不動産業者も少なくなかった。しかし、開発時代、開発年代、開発独裁が去り、この単語の光も消え失せた。国土開発研究院、土地開発公社などは、機関名から「開発」を素早くはずした。今や量の時代、建設の時代が去り、質の時代、文化と環境の時代が到来したかのようだった。

◆しかし、開発中毒症は相変らずだ。遷都してこそソウル肥大症を治すことができると言っていたのが、今では、大統領府周辺の住宅地に高層建築を、世宗路(セジョンロ)には超高層の市庁舍を建てると言う。龍山(ヨンサン)公園の地下を開発するという「抱負」も聞こえる。「革新都市」を造るといるが、それも内容を詰める前に、土地を削って建物を建てることから考える。国道を広げると言って山腹を切り開き、新都市を造ると言ってグリーンベルトをためらいもなく解除する。

◆土建業者らが開発をけしかけたいのは、当然である。しかし政策当局が、都市と国土を土建事業の舞台として眺めるのは嘆かわしい。ハードウェアを変えたからといって、ソフトウェアが自然にアップグレードされるわけではない。整形、外科手術だけで人の健康と幸福を作り上げることができないことと同様の理である。にもかかわらず、開発中毒に陥った政府は、事案にかかわらず、天下の宝刀のように開発処方を書き、「開発」の文字をはずした機関は、開発処理に大忙しである。

◆「開発」と訳す英語の「development」には、成長、啓発、成熟、前進、改良、進化の意味が含まれている。外部から強要された物理的な開発ではなく、自ら、ゆっくり、少しずつ内面を満たして育て上げる総体的成長を意味する。そうしてこそ、人と空間がともに育つ。開発中毒者たちが見逃がすのが、まさにこのような「内発的成長」である。この大切な過程には目を向けず、土建業者の目で都市と国土を眺める政府ならば、もはや先進社会を話す資格はない。

カン・ホンビン客員論説委員(ソウル市立大学教授、都市計画学)hbkang@uos.ac.kr