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『ミリオンダラー・ベイビー』に対する二つの声

『ミリオンダラー・ベイビー』に対する二つの声

Posted March. 16, 2005 22:37,   

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◆余剰のないイーストウッドの美学

▲ナム・ワンソク〓クリント・イーストウッドが老年に作った映画は、どれもハリウッドが最も好む要素を揃えているようだな。ジャンル映画のルールをある程度守りながら、それをすこし越えて人間または人生について哲学的に語っている。それに比べてスコセッシ監督は、映画的にはるかに優れた監督だけど、現実を深く見つめるのに力を入れているため、それがハリウッドとしてはおいしくないんだと思う。

▲シン・ヨンソプ〓私は基本的に、イーストウッド映画の基盤は「家族主義」だと思う。イーストウッドは保守主義者だろう。『ミリオンダラーベイビー』も擬似家族、つまり父と娘の物語だ。それがアカデミーには通用するんじゃないかな。

▲ナム〓「家族中心の保守主義」というのが彼の限界でもあるね。イーストウッド映画を見ると、人物やストーリーが中心となって、手法上の実験は非常に制限的だから。

▲シム〓それについては私はちょっと違う見方だね。イーストウッドがジョーン・フォード、ジャン・ルノワールに継ぐ、生きた最高の米古典主義、自然主義監督だと思うな。彼の映画で不思議なのは余剰がないということだ。彼は映画の美学が分からなくてそうしているわけではない。むしろ、分かっていても捨てるわけ。彼のカットは一見素朴で地味に見えるけど、ブロックを一つ一つ積み上げるように、終局には壮絶で圧倒的な、人間の本性を見抜く洞察力ある映画を作ってみせる。

▲ナム〓そのような演出を選んだのは、イーストウッド自身が映画人、または俳優として生きてきた過程の結果だと思う。マカロニウェスタンからダーティーハリーまで、彼のキャラクターには少し冷たくてユーモアな、半英雄的な要素があった。しかし、後半になるほど、米国の歴史の波の中で去っていく、何らかの悲哀と深みのあるキャラクターに変わっていく。日増しに円熟していってるね、イーストウッドは。

▲シム〓だから、イーストウッドは「ハリウッドの奇跡」だとか言われているじゃない。その奇跡は、自分がやってきたのを反省し、考察できたために可能だったと思う。彼の作った映画の中の主人公たちは、世間と疎通が断絶されているが、それは深い罪意識によるものだ。彼の初のアカデミー監督賞受賞作の『許されざる者(Unforgiven)』を見ても、主人公のウィリアム・マニーはガンマンで、過去の自分に対して深い負債意識を持っている。それは映画監督として自分の生まれ故郷の西部劇にできることは何なのかを問いかけてきた過程で見せてくれた態度だと思う。それで、彼は老いていくほどいい映画を作っている。本当に驚くことだな。その点では、私は全世界の監督が彼に見習うべきだと思う。

◆ボクシング映画を越えたリングのドラマ

▲シム〓偉大な米国の男性マッチョ監督たちは皆、ボクシング映画を作りたがるみたい。『レイジング・ブル』を作ったスコセッシもそうだったし、『アリ』をつくったマイケル・マン監督もそうだった。その監督たちは四角のリングを「逃げ道のないジャングル」として描いている。最近でいえば、韓国映画の『力道山』までも。ところが、イーストウッドはそれを乗り越えて語っている。この映画の目的は華麗なボクシングの演出にあるわけじゃない。彼が自分の選手であるマギーに話す言葉は「自分自身を守れ」。それこそ親が子にやってあげる最高の愛情表現じゃない。でも、人生はそうはいかない。人生はあまりにも曖昧で、変数も多く、親が代わりに戦ってあげることもできない。ときには計り知れない深淵に陥ったりするし。

▲ナム〓なぜフランキーは聖堂のミサに参加し、神父に会うのか。フランキーがリングで血を流す人を止血するセカンドだとすれば、神父は霊魂の止血をする人だろう。傷の専門だという点では同僚なわけだ。最初、マギー(ヒラリー・スワンク)が安楽死させてほしいと要求した時、彼は断る。でも、彼女が自殺しようと舌を噛むと、フランキーはついに彼女の願いを叶えてあげる。マギーが血を流す瞬間。彼が行動する時間、つまり止血をする時が訪れたのだ。

▲シム〓それで罪意識や容赦だけでなく、この映画の重要なテーマの一つが「傷」なんだな。ただ一回のビッグ・クローズアップが、あるボクサーが目辺りに負った傷を拡大したものだった。イーストウッド映画の主人公たちが負う傷は、だいたい取り返しのつかない、あまりにも骨に近くて止血できない種類の傷だった。そのような状況で人間が人間に何をやってあげることができるのかをイーストウッドは語っている。チャンピオンになったマギーのファイトマネーが、なぜ100万ドルなのか?それは安いチップでその日その日を繋いでいたマギーが100万ドルの価値になったというわけではない。それは重要じゃない。マギーとフランキーの関係が100万ドルのものになったというのが重要なのだ。傷を治す根源は、他でもなく、お互いに対する絶大な信頼と集中、四角のリングでももっぱらお互いの声だけを聞ける集中だということだ。ここで100万という数字はただ一つの言葉に変わる。「モクシュラ」(大切な私の血肉)に。

◆光と音楽、声が生み出した強い映画

▲シム〓この映画の最も重要な形式的要素が、光だと思わない?

▲ナム〓暗いね。コントラストが強くて。

▲〓映画の中の人物が出会う重要な契機、関係はどれも闇の中で行われる。フランキーがマギーのトレーナーになると約束するシーン、フランキーがマギーを安楽死させるシーン。全部暗い。その代わり、残酷な場面、マギーがリングで倒れたり、マギーの家族がマギーに強制的に遺産相続を受けようとする場面は、みんな昼の明るい光の下で進行される。人間の深淵を映画の照明で処理しているような気がする。

▲ナム〓ストーリーが与える重さを音楽の節制が倍加している。全部イーストウッド自身が作ったものだろう。彼はジャズ・マニアであり、スコセッシの「ブルース」ドキュメンタリー・シリーズの一つである『ピアノ・ブルース』も監督している。

▲シム〓音楽に負けないくらい、この映画の魅力は一人称のナレーションだな。ほとんどのナレーションは主観的か感情的で幼稚になることが多いけど、モーガン・フリーマンの台詞は冷静で哲学的だ。映画前半の楽しみは「ボクシングには尊敬というのがある。自分のを守りながら相手からそれを奪い取るのだ」、「ボクシングにおいて奇跡とは、耐えることにある。いかなる苦しみが来ても耐え抜いて、肋骨を折って網膜を切ってでも戦うんだ。自分しか見られない夢のために全てをかけないと」のような、フリーマンの名台詞を聞くことにある。

▲ナム〓さて、この映画が映画歴史に末永く残る傑作になり得るか?君はどう思う?

▲シム〓私はクリント・イーストウッドが映画史に残る作品を作ろうとしているとは思えない。フランキーがチャンピオンの調教ではなく、傷を扱う最高のセカンドだったように、彼はただ自分の知っていることを語り、その中で生きようとする、わきまえのできる人であるだけだと思う。ベスト・イン・セカンド。ある意味で人生ではうぬぼれたファーストよりは、最も立派なセカンドの方が貴重なのではないか。



ryung@donga.com