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17世紀の朝鮮の名家

Posted March. 04, 2005 22:52,   

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韓国学中央研究院の蔵書閣で古文書の調査を担当している著者は、この本で17世紀のソウル、京畿(キョンギ)に基盤をおいた各名家の来歴と家風を紹介している。月沙(ウォルサ)家をはじめて安東(アンドン)金氏の清陰・金尚憲(チョンウム、キム・サンホン)家、潘南(パンナム)朴氏の西渓・朴世堂(ソゲ、パク・セダン)家、韓山(ハンサン)李氏の鵝溪・李山海(アゲ、イ・サンヘ)家だ。

17世紀の名家を取り上げた理由は次のようだ。

「16世紀までは母方の実家で育つのが普通だった。親家、母の実家、妻の家や外孫、また直系の孫などをあまり区分しなかった。年寄りは息子がいなければ娘に頼ったし、外孫たちが祭祀を奉じたりした。しかし、17世紀に入って士林(儒道)政治と朱子学的秩序が定着すると、父系中心の親族意識が広がった。息子・娘に一緒に譲渡した相続が長男中心になった。家門の初の系図が活発に刊行されたのもこの時期だった」。

このような時期に、名家としての最初の条件はもちろん官職だった。学問的基盤と政治的立場も明確でなければならなかった。クリーンさ(清白)や親孝行(孝烈)、文人(文翰)のような固有の家風が加わってこそ、家門の格はもっと高くなった。

西渓家門の家風は、直言すれば知性だった。朴世堂は文科にトップで合格したが、王が温泉をよく尋ねたため生じる弊害を赤裸々に指摘した後、官職を去った。息子の朴泰輔(パク・テボ)もトップで科挙に合格したが、肅宗(スクジョン・朝鮮第19代王)の時に、仁顯(インヒョン)王后を追い出すことは不当だと直言して、審問を受けた後、島流しの道中で死亡した。朴世堂は自分が亡くなった後、墓碑に「結局、世の中には頭を下げないよう」という文章を書くようにした。これが明らかな家風になった。

一方、名家は婚姻を通じて勢力家に成長したりもした。清陰家を見れば、清陰の5代祖の金ゲグァンは大提学(官職)権孟孫(クォン・メンソン)の壻になって、子孫たちに出世の道を開いた。現職堂上官の子孫は、国家試験を受けなくても管理になることができる門蔭の恩恵が、息子の孫はもちろん、壻の外孫にまで影響を与えたからだ。金ゲグァンの孫金センヘは成宗(ソンジョン・朝鮮第9代王)の息子である景明君・李チムの壻になって、後日安東金氏家が相次いで王家と結婚する道を開いた。清陰の父親金グクヒョは左議政(朝鮮時代の宰相)鄭惟吉(チョン・ユギル)の壻になって家門を士林の主類に導いた。しかし、このような婚姻だけでは名家と呼ばれるのには足りなかった。清陰は清の出兵要求を反対する提言を申し上げて清に送られて6年間獄中生活を送った。そして孝宗(ヒョジョン、朝鮮第17代王)が即位すると、北方征伐の象徴になった。

この本は、決して易しくない古文書の分析作業を通じ、名家の生活ぶりまで見せてくれているという点で労作と評価するに値する。清陰は自分の印章を自ら彫ったが、生涯に100個を超える印章を所有した。その印章を保管する樓閣を別途に建てたりした。自分の名前を刻みながらも、その名前を決して汚さないようにと念を押したようだ。



權基太 kkt@donga.com