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[オピニオン]文化テロ

Posted March. 02, 2005 23:05,   

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1966年2月15日。東南アジア歴訪中に自由中国に到着した大統領の朴正煕(パク・ジョンヒ)は、総統部で張介石総統と会談を行った。この席で張総統は、梅軒・尹奉吉(メホン、ユン・ボンギル)義士に対する深い尊敬心を示した。「中国の100万大軍ができなかったことを実現した真の男だ」と讃えた。張総統は続いて、尹義士の遺家族の安否を問い、よく面倒を見てくれることを勧めた。朴元大統領は、帰国後、尹義士の一家を探し出して格別な関心と好意を施した。

◆1968年4月29日。朴大統領は尹義士の愛国忠節を称えるために、尹義士の故郷の忠南禮山(チュンナム・イェサン)に造成された忠義(チュンウィ)寺の建立式に参加して、「忠義祠(チュンウィサ)」という親筆揮毫を残した。前日、朴元大統領は牙山顯忠祠(アサン・ヒョンチュンサ)で開かれた忠武公(チュンムゴン)誕辰祭礼にも参加した。満洲(マンジュ)軍官学校出身で一時左翼に加わったという自責から逃れなかった朴元大統領は、在任中、牙山顯忠祠や柳寛順(ユ・グァンスン)記念館建立など抗日記念事業に多大な関心を傾けた。

◆地方のある文化院長(46)が三一節(独立運動記念日)史蹟229号に指定されている忠義祠の境内に無断に入り込み、祠堂にかけてあった朴正煕の親筆懸板を三つに切って独立記念館の「同胞の家」前の階段に展示した。この人は「挙事」の後、警察に進んで出頭して共用物損傷および建造物侵入の疑いで在宅起訴された。朴正煕の親筆懸板が撤去されたのは、01年11月、ソウル鍾路(チョンロ)区塔骨(タプゴル)公園の「三一門(サムイルムン)」以後、二番目だ。これを「快挙」と受け入れている人もいると言うから、朴正煕に対する好き嫌いとは関係なく恐ろしいばかりである。

◆一言に言って「文化テロ」だ。個人の私的評価を国民みんなの評価と勘違いしたのではないだろうか。時代を問わずこの類の「確信犯」は存在するものだ。しかし、先の文化財庁長の「光化門(クァンファムン)」懸板入れ替えの議論に続いて、今度の事態を見守りながら、「政権史観」がこうした類の「個人史観」を量産しているのではないかと深く残念で心配である。

呉明哲(オ・ミョンチョル)論説委員oscar@donga.com