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マルアトン

Posted January. 26, 2005 22:57,   

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自閉症児の人間勝利を描いた映画「マルアトン」は、これまで私たちが忘れていた些細ながら大事な感覚を繊細に呼び起こしてくれる。それはまさに「触覚」だ。この映画はくすぐる。手先を掠る野草、手のひらに伝わる心臓の鼓動、目頭を掠める風、額を叩く雨粒…。こうしたものが今更ながら美しく、温かくて、偉大なもののように感じさせるのがこの映画の力であり、この映画が持つ感動の根っこだ。こうした肌触りは自閉症児のチョウォンの言葉のように、私たちの胸を「ドキドキ」させる。この映画は笑わせてくれるが、笑わせるから面白くて、面白いから哀しくて、哀しいから感動的である。

シマウマとチョコパイにとらわれ過ぎる自閉症児・チョウォン(チョ・スンウ扮、写真)は、二十歳の青年になったものの、知能は五歳のままだ。母親のキョンスク(金ミスク扮)は、走りに才能を見せるチョウォンを訓練させて、「サブスリー」(マラソンのフルコースを3時間内に完走すること)を達成しようとする。ある日、チョウォンが通っている特殊学校に飲酒運転で社会奉仕命令を受けた往年の有名マラソナー・チョンウク(李ギヨン扮)がやってくる。キョンスクはチョンウクに息子のコーチを無理に任せる。人生に否定的だったチョンウクは徐々にチョウォンに心を開く。

観客は映画を見なくてもどういうふうにストーリが展開され、結末がどうなるか見当が付けられる。それほど内容と設定は陳腐なわけだ。しかし、「マルアトン」はこの陳腐な要素を再度着実に組み合わせて、強力な響きのメッセージを創りだす。チョ・スンウのおかげだ。チョ・スンウは、「倒れないよ、チョウォンは。倒れない」という平面的な台詞の単語一つひとつを分離して、落ち着かない態度で発音することで、とても立体的で特別な感じを与える。彼は自閉症児の真似をするよりは、彼自身を自閉症児として創造した。

「チョウォンの脚は?(母)」、「100万ドルの脚(チョウォン)」、「チョウォンの体つきは?(母)」、「かっこいい(チョウォン)」。

この映画を率いる力は「繰り返し」だ。親子がやり取りするこの台詞は数回繰り返されるが、同じ台詞が繰り返されるたびに、最初は笑わせ、次は泣かせ、その次は悟らせる。これは似たような台詞と行為を、変わっていてさらに奥深くなった状況の中に挟みこむことで、観客が能動的に感じ考えるようにするこの映画の洗練された態度から生まれたものだ。これはチョウォンが執着する二つの対象のチョコパイとシマウマにも同じく適用される。チョコパイとシマウマはチョウォンが大好きな対象だが、チョウォンを困らせる対象でもあり、結局チョウォンが乗り越えなければならない対象である。この二つから独立していく過程を通じて、チョウォンは外の世界と疎通するようになり、母親とコーチは初めて自分の人生の真の主人公になる。

「雨がジャージャーと降ります」、「胸がドキドキします」といったとても平凡な言葉も身震えがするほど特別に感じられる。こうした幾つかの台詞と単語が繰り返される間、観客の感情は武装解除の状態に追い込まれる。自分が笑ったその理由のため泣くようになる妙な経験。この映画はあたかもチョウォンがマラソン・フルコースの長さを数字で「4.2.1.9.5」としっかり左腕に書くときの気持ちで、急いだり強要したりしないで感情の袋を開ける。そして、この映画と一緒に「4.2.1.9.5キロ」を至難に走ってきた観客が出くわすのは、決して忘れられないチョウォン(もしくは人間チョ・スンウ)の表情、「スマイル!」だ。

23年ぶりにスクリーンに登場した金ミスクも優雅さを捨てた代わりに、柔らかさを兼ね備えた強いイメージで、「わが兄さん」などで金ヘスクが描き出した厳しくて強い母親像とは一味違う独特なポジションを創りだした。タイトルの「マルアトン」は、チョウォンが自分の絵日記の「明日やる事」欄に書いた単語をそのまま持ってきた。チョン・ユンチョル監督の長編デビュー作。27日封切り。全体観覧可。



李承宰 sjda@donga.com