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[オピニオン]リーダーシップの断想

Posted January. 02, 2005 22:35,   

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反省する年末を送った後は希望を見い出す新年が開かれる。希望はどこから見い出せば良いだろうか。誰が我々に希望を与えてくれるのだろうか。世の中が複雑で不確実であればあるほど、リーダーシップに対する関心は高くなる。秩序を維持し、ビジョンを示す指導者の力量が切実であるからだ。もちろん、リーダーシップが少数の政治家の課題だとは限らない。リーダーシップに対する最近の出版物は、主に企業経営を扱っている。現実でも、経済の占める割合が、その分高いからであろう。

◆例えば、「仕えるリーダーシップ(servant leadership)」のモデルがあれば、サンタクロースからリーダーシップの秘密を探ったりもする。また、ジンギズカンが21世紀の経営戦略の指針を一目瞭然に示したりもする。「唯一の失敗は失敗から何も学ぶことができない場合のみ」と信じて、自分を徹底的に管理する「原則中心のリーダー」らも関心を引く。彼らはまじめに学んで、信頼を重視し、シナジーを活用して、バランスの取れた暮らしを営む。それなりに清聴に値する言葉だ。

◆しかし、企業経営と国家経営のリーダーシップは似ているようで違う。私と公に対比される二つのリーダーシップの間で中核的な違いは「超越性」である。自己中心性と党派的利害から超越するために、政治指導者は絶えず覚醒と修行を求められる。自己犠牲の内容と程度がそれぞれ違い、具体的な状況の中で正しい判断を下すための基準も複雑であるため、政治的リーダーシップの要件は簡単に提示されることができない。そのため、国レベルのリーダーシップは運(luck)と言われたりもする。それほど国家経営のリーダーシップを養成するのは難しいことだ。

◆前回の「政府業務評価報告会」で盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は、「閣僚人選の基準は総合的リーダーシップ」であることを強調した。リーダーシップは基本的に多様な徳目の総合である。果たして韓国社会は個人と党派、省庁間の利害を乗り越えて「共同の善」を目指すリーダーシップを成功裏に育ててきたのだろうか。でないなら、これからでもまともにやってみよう。教育人的資源部が示した「用意性」教育対策に「リーダーシップ教育」を含ませよう。公共精神を育て、中庸の判断力を培うリーダーシップ教育から、希望の大きな流れを見い出すべきではないだろうか。

柳弘林(ユ・ホンリム)客員論説委員(ソウル大学教授・政治学)honglim@snu.ac.kr