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中年にのしかかる人生の重み!

Posted November. 26, 2004 23:08,   

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久しぶりにいい小説に出遭った。滑らかな文章と巧みな叙述で多難な人生を上手に捉える作家と定評のある李・チョンヘ氏(56)の4番目の小説集「楽譜をめくる男」はまず、面白い。そして読み終えて本を閉じると、ずっしりと余韻を感じられる。ふいと出かけて風邪に当たりながら歩きたくなる。そしてこう自問したい。「生きることって何だろう。」

彼女の小説に登場する人はみんな中年の世代だ。40代半ばの中学校教師や55歳の中産階層の主婦、50代の公務員だ。彼らは衣食に事欠いたことがない。金持ではないけど不満はない。大した欲もなく、手の届かないものは求めない。華やかな暮らしではないが、満足しているという意味では誰よりも幸せだと思って生きてきた人たちだ。ところが、果たしてそうだろうか。

彼らは突然かかってきた昔の恋人からの電話に出たり(「午後のひかり」)、25年ぶりに女子高の同窓会で昔の友人に再会したり(「人生の真ん中」)、不況で仕事を失い(「信用保証基金からの男」)、ふと鏡に映る自分の顔を見つめる。そしてこう問う。「本当によかったか。これが満足できる姿なのか。」

しかし、小説の人物はこうした問いに、簡単には虚しさを覚えたり、逸脱したりしない。彼らは前ばかり見て突っ走ってきた中年で、のしかかってくる人生の重みに崩れ落ちない。経済的にゆとりがあろうがなかろうが、成功した人生であろうがなかろうが、結局、人生は本質の面では同じだということに気づく。人生の真の意味を洞察する李・チョンヘ小説ならではの輝きだ。

小説の人物はよく対比される。「信用保証基金からの男」は、仕事と妻を失った男性と、借金の取立てに彼を訪れてきた信用保証基金職員の物語りだ。一方は経済的に困っているが、身体丈夫な男、片一方は仕事はあるが、ガンで闘病中だ。借金の返済をするか、してもらうかの相反する立場の2人はお互い自分のことを打ち明け、やがて人生でそれぞれが思う幸せと不幸の足し算の答えは、みんな同じだというアイロニーを会得する。

こうした対比の同質性は「人生の真ん中」でも現れる。夫を亡くして女手一つで息子を育ててきた私と、大学教授の奥さんとして楽をしている女子高の同窓生のユンジュの人生は、表向きでは幸せと不幸がはっきりと見分けられる。しかし、「私」はユンジュも相次ぐ交通事故で数回も足に手術を受けているうえ、主人の浮気に悩まされ心身ともに疲れ切っていることが分かり、「ユンジュ」の人生が私の人生と変わらないことを思う。

李チョンヘ小説が持つもうひとつの魅力は、人生を見つめる「憐憫」と「包容」の視線だ。彼女の小説の人物は「見えないところで頑張っていながら、人を喜ばせることなら何をしてもりっぱだ」と話す。表題と同じ題名の「楽譜をめくる男性」の主人公は、それ(楽譜をめくること)も仕事かと言われてこう答える。「これだけいい音楽を人に聞かせる場に一緒にいられることに満足する。」

既に前作の「オーロラの幻」で純愛を訴えた作家は、やはりアナログ世代だ。「金」だけがあらゆる価値の中心になっているこの時代に、デジタル世代はアナログ世代をからかうかも知れない。しかし、時間は彼らにも間違いなく流れ、彼らも老いていく。そのときになれば、彼らも気づくのだろうか、人生の幸せと不幸の足し算の答えは結局、誰にも同じだということに。



許文明  angelhuh@donga.com