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[オピニオン]「486」

Posted November. 19, 2004 23:03,   

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1990年代半ばある在米哲学者は興味深い見通しを出した。「韓国社会がこれから386世代のため大きな困難に直面する」と言うもので、1980年代半ばソウル大学に訪問教授で講義をしながらそのような結論に至ることができたという。特に主思派の運動圏学生たちの硬直な考え方と単純論理に彼は絶望したという。「まさか」と思って聞き流した彼の「予言」は10年ぶりに現実になった。問題は盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権出帆に決定的な寄与をしたその「386」らがもう10〜20年の長期執権を図るという点だ。

◆60年代に生まれて80年代に大学に通った30代を含蓄的に説明した造語である「386」が、韓国社会を説明する核心キーワードに登場したのは1990年代だ。「80年光州(クァンジュ)」に対する鬱憤を共有した彼らは時代のタブーだった反米の壁を越えており、一部は主体思想に溺れている。暗鬱な時代的現実の前で彼らは自分も知らないうちに意識過剰になっており、ソ連と東欧の没落にもかかわらず思想的転向を断固として拒否した。

◆「386」に対する評価は両極端だ。社会的弱者に対する理解が深い自主勢力という好評と「紅衛兵」または「悪の軸」という酷評が交差する。事実上現政権の摂政をしているという話も聞く。しかし世の中に変わらないものがどこにあろうか。いつのまにか不惑の年になった往年の「386」らが制限的かつ閉鎖的な経験を反省して「486自由主義連帯」結成を宣言した。コンピューターも386、486、586にグレードアップしたように386世代も考え方が進歩しなければならないというのだ。

◆独裁政権時代に韓国社会は運動圏に対して非常に寛大だった。運動圏の学生をまるで独立運動家のように庇った時代もあった。運動圏は勉学派に対して道徳的優越感を持っていたし、一生懸命働いて成功した同窓からお酒をおごられながらもいつも堂々としていた。それによって運動圏は歴史と時代の流れに追い付くことができず、憎みながらも既得権に近づいていった。運動圏はすでに大学でさえ「スポーツ圏」に卑下されている。 淀んだ水は必ず腐る。

呉明哲(オ・ミョンチョル)論説委員 oscar@donga.com