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木こりと鹿は文化だ

Posted April. 03, 2019 08:40,   

Updated April. 03, 2019 08:40

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童話は、純真無垢な童心の世界だけを含むと思われるが、巧妙に暴力を隠したりもする。グリム兄弟やアンデルセンの童話は言うまでもなく、「木こりと仙女」のような韓国の昔話もそうだ。「木こりと仙女」はこんな話だ。貧しい木こりが猟師に追われた鹿を木の後ろに隠し、命を救った。その恩返しに鹿は木こりの願いを聞き入れる。木こりは鹿の言葉に従って、仙女の羽衣を隠し、妻にする。その後の話は、いずれにせよ木こりの立場で見れば、願いを成就する幸せな話だ。しかし、やむを得ず木こりと結婚しなければならない仙女の立場で見れば、暴力の話だ。私たちがこの話を暴力と認識しないのは、仙女の見解で眺めることを私たちの文化が無意識的に抑圧するためだ。

「木こりと仙女」という題名も、木こりを前に置くことで抑圧の一助となる。木こりを中心にすべてのことが合理化される。それなら題名を「仙女と木こり」に変えればどうだろうか。そうなると仙女が話の主体になり、仙女が入浴する場面をのぞいて羽衣を盗み、だまして結婚する木こりの行動はのぞき見であり暴力になる。仙女を妻にするために秘密を教える鹿も、その暴力に同調する。いや、鹿は単なる同調者と見るよりも、暴力を処方してそそのかす主体か、少なくとも家父長文化の代理人だ。

しかしこのように読むには、題名だけ変えるのではなく、内容も変えなければならない。我が国で出版された20余りの「木こりと仙女」、「仙女と木こり」を比較してみると分かるように、内容を変えず、題名だけ前後を入れ替えることは、スローガンだけで世の中が変わることを願うも同然だ。スローガンはスローガンにすぎない。本当の変化は、「木こりと仙女」、「仙女と木こり」が基盤とする文化が亀の歩みであっても少しずつ正しい方向に進む時こそ可能だ。文化の中の暴力を凝視して考えるのが必要な理由だ。



シン・ムギョン記者 yes@donga.com