Go to contents

多数の意見は常に正しいか

Posted August. 06, 2018 09:12,   

Updated August. 06, 2018 09:12

한국어

全人類の中で一人だけが異なる考え方を持っているからといって、その人に沈黙を強要するのは正しいことではない。これは、その人が自分と考えが違うという理由だけで、残りのすべての人々に沈黙を強要することと同じくらい容認できないことだ。( ―ジョン・スチュアート・ミル「自由論」)

ミルは、1859年に書いた「自由論」で、既存の観念を超える自由論を繰り広げる。以前の自由論は、国と個人の関係に重点を置いた。天賦人権、主権在民の思想に基づいて專制権力を打破し、支配者と被支配者を一致させる民主権力構造を設計することが、政治思想家たちの関心事だった。

米国の独立宣言とフランス革命は、古典的自由主義が拡散される起爆剤となった。それから半世紀が経った後、ミルは、民主的政治体制の進歩にもかかわらず、依然として、個人の自由が十分保護されていない現実に目を覚ます。ミルは、各個人が自分の人生を自分が好きなように追及することによって得られる「個別性」こそ、人間を人間らしくする重要な要素であり、幸せの源だという信念を持っていた。彼は他人に害を及ぼさない限り、その個別性が干渉されず尊重されることを自由の本質と把握した。

ミルは自由が侵害される構図として、個人と社会の関係に注目する。「社会が誤った目標や関与してはならないことのために権力を振り回す時、その横暴は、政治的弾圧よりもはるかに恐ろしいことになる」。ミルは、「人民の意志」という名の下で、国家の手を借りたり、非権力的作用を通じるなどして多数によって個人の自由が抑圧される「多数の暴政」を懸念した。

ミルは、社会性と個別性を調和させることで、個人の自由を保障すべきだと力説する。特に政治領域で民主主義についての理解が「多数だから正しい」とか「正しいから多数だ」という数字支配論理に留まるレベルの社会であれば、「自由論」は、時代を超越した的實性がある。寛容と妥協が居場所を失い、「正義」、「国民の意」という名の下で、考え方・表現・学問の自由を抑圧して画一性を強要はしないかと自らを警戒することを、ミルの自由論は促している。