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40年ぶりに再び、「沖縄のハルモ二」の叫び

40年ぶりに再び、「沖縄のハルモ二」の叫び

Posted July. 31, 2018 09:28,   

Updated July. 31, 2018 09:28

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「私は従軍慰安婦だった」

1991年8月、故・金学順(キム・ハクスン)さん(1924~1997)がこのように辛い過去を証言し、大きな反響を呼んだ。しかし、これに先立ち75年10月、沖縄に裵奉奇(ペ・ポンギ)さん(1914~1991)がいたことはあまり知られていない。70年代に山谷哲夫(71)監督が裵さんをインタビューした記録映画『沖縄のハルモ二』を知る人はさらに珍しい。7日、この映画が東京・渋谷の小規模の映画館で上映された。

裵さんが望んで過去を明かしたわけではなかった。44年から沖縄の孤島、渡嘉敷島で慰安婦を強要され、終戦を迎えた。故郷に帰ることができず、75年に不法滞在で強制追放されそうになり、当局に理由を明らかにした。特別永住の資格を得た後、地元の新聞に仮名で応じたインタビューで、「戦場でのことが恥ずかしく、故郷に帰ることができなかった」と語った。

78年、山谷監督が訪ねたとき裵さんは、サトウキビ畑の真ん中の2坪もない納屋のような家で、一人で暮らしていた。「仕事もせず金を稼げる所に行かないか、とだまされた。船に乗った後、沖縄に行くと聞かされた」。裵さんは、一緒に行った朝鮮の女性6人と慰安所で過ごす間、「アキコ」と呼ばれた。兵士の中には時々チップや石鹸をくれる人はいても、管理者から金をもらうことはなかった。

映画は、渡嘉敷島の慰安所跡も訪れた。慰安所の隣に住んでいた43歳の男性は、「私はその頃、8、9歳だったので、意味がわからなかった。後に慰安所だったことを知り、気の毒に思った」と話した。男性の69歳の母親は、朝鮮人慰安婦7人の名前を一人一人挙げ、彼女たちは「こんなはずじゃなかった」とよく泣いた、と伝えた。「食堂で仕事をすると思って来たのに、あんなことをするなんて、本当に哀れだった」。

山谷監督がこの映画を撮った70年代は、慰安婦問題に関心が持たれる前だった。元慰安婦女性をうわさをたよりに捜して出会ったチェ・チャンギュ元建築家協会会長(当時59歳)は、「私と同じ年頃の日本の男性たちが真相を知りながら、何もなかったように口を閉ざすのが残念だ」とし、自身が見聞きした慰安所の実状を証言した。

『沖縄のハルモ二』は最小限の編集だけのドキュメンタリーだが、7日の上映会は58席全席が完売した。観客の外山小粋さん(23)は、「戦争が女性にどのように見えない暴力を行使し、その暴力が戦争が終わった後もどのように続いたか知ることができた」と話した。ドキュメンタリー映画を作っているという都鳥拓也さん(35)は、「このような記録が残っていて、まだ見に来る人々がいることは驚くべきだ」とし、「映画の存在はあまり知られていないが、日本の若い世代が見る機会が増えればいい」と話した。


徐永娥 sya@donga.com