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ジャイアンツの黄載鈞、メジャーデビュー戦で決勝本塁打

ジャイアンツの黄載鈞、メジャーデビュー戦で決勝本塁打

Posted June. 30, 2017 08:43,   

Updated June. 30, 2017 08:43

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「人生はBとDの間のCである」

フランスの哲学者、ジャンポール・サルトル(1905~1980)はこう語った。人が生まれて(Birth)死ぬまで(Death)、どんな選択(Choice)をするかによって人生が変わることを意味する名言だ。

29日、メジャーデビュー戦で決勝本塁打を放ったサンフランシスコ・ジャイアンツの黄載鈞(30)の人生にも何度か「C」が訪れた。黄載鈞は同日、背番号「1」をつけたユニフォームを着て本拠地AT&Tパークでコロラド・ロッキーズを相手に先発の5番・三塁手で大リーグデビューを果たした。

4回裏の第二打席で投手前ゴロでメジャーデビュー戦の初打点を挙げた黄載鈞は、6回裏の打席ではカイル・フリーランド(24)が速球(時速145キロ)を捉え、左フェンスの向こう側へ運んだ。黄載鈞の大リーグ初安打でもある本塁打は、3-3の同点でジャイアンツが4-3に勝ち越す本塁打だった。

黄載鈞は、この本塁打で1993年のトム・ヘイフィー(1913~1996)に次いでデビュー戦で本塁打を放った球団史上2番目の三塁手になった。ジャイアンツが5-3で勝利し、黄載鈞の本塁打は決勝本塁打となった。

●Chance(偶然)

退団しようとした黄載鈞の運命を変えたのは控え内野手のコナー・ガレスピ―(30)だった。故障者リスト(DL)入りしていた彼が復帰すれば肩身が狭くなると読んだ黄載鈞は、オプトアウトを行使して自由契約選手(FA)を宣言しようとした。そのとき、ガレスピーが再びDL入りし、黄載鈞はメジャー昇格の通知を受けた。

黄載鈞が2007年にプロ野球の現代(ヒョンデ)で初めてレギュラーの座を勝ち取ったのも偶然の出来事だった。当時、現代の正遊撃手はチ・ソクフン(33=現NC)だった。当時現代監督を務めたキム・シジン氏は、「どんな状況でもチ・ソクフンが正遊撃手だ」と言い切っていた。しかし、打率が.176しかなかったチ・ソクフンは、キム監督を訪ねて「打撃練習をもってできるように、お願いですから2軍(現フューチャーズリーグ)に送って欲しい」と涙で訴えた。

その時、代わりで1軍に昇格されたのが黄載鈞だった。黄載鈞は、打率.300でシーズンを終え、監督のお墨付きをもらった。その後、球団がネクセンに変わり、ポジションを三塁手に変えた後も、またロッテにトレードされた後も黄載鈞はレギュラーの座を手放さなかった。「Chance」は「機会」の意味もある。

●Challenge(挑戦)

黄載鈞が韓国球界の同年配の中で断トツの三塁手だったとは言い難い。チェ・ジョン(30=SK)がいるからだ。二人はそれぞれ異なる道を選んだ。2014年に自由契約選手(FA)資格を得たチェ・ジョンは総額86億ウォンでSKに残ったが、黄載鈞はマイナーリーグだけで終わるかもしれない契約条件を受け入れた。メジャーリーグに昇格した時の保障額も310万ドル(約32億ウォン)しかなかった。「メジャーリーグで本塁打を打ってみたい」というのが、挑戦の道を選んだ理由だった。黄載鈞は、この日の本塁打で一つの夢を叶えた。

黄載鈞のチャレンジ精神は母譲りかもしれない。母のソル・ミンギョン氏(57)は安城(アンソン)女子高時代からソフトテニス選手として活躍したが、農協(現NH農協銀行)に入団してからは硬式テニスに種目を変えた。それから4年後の1982年のニューデリー・アジア大会で女子団体戦で金メダルを獲得した。黄載鈞は2014年の仁川(インチョン)アジア大会で母に次いで野球で金メダルを首にかけた。今は母親に次いで息子が大リーグでも夢に向かって歩き出している。



黃奎引 kini@donga.com