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9・19共同声明を引き出した米元高官の交渉術とは

9・19共同声明を引き出した米元高官の交渉術とは

Posted October. 17, 2015 07:23,   

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2005年、6者協議の9・19共同声明に最終合意し、発表する直前、ライス米国務長官(当時)が6者協議米国側首席代表のクリストファー・ヒル国務次官補(東アジア・太平洋担当)に電話をかけた。「(合意文の)『北朝鮮と米国の平和共存』を外せるか」。「平和共存」は冷戦時代の表現なので削除しなければならないということだ。ヒル氏は、誰かが彼女を仕向けていると考えた。新保守主義者(ネオコン)が影響力を及ぼしたというのだ。

6ヵ国が合意した声明文案を修正することは容易でない。ヒル氏は、「『平和共存』という表現を『平和に共に存在する』に変えるのはどうか」と提案した。承認を得て携帯電話を切ったヒル氏は、中国側首席代表の武大偉氏のところに向かった。武大偉氏は、「この時点でテキストを変えようということか」と問い直した。「より良い英語表現」と説得し、数分後に合意を発表した。

北朝鮮核に対する米国の強硬な対応を批判し、9・19共同声明を誕生させた立役者の1人であるヒル氏が、核交渉をはじめ33年間の外交官生活を総決算した。

1980年代以降、国際外交の大事件だった1995年のボスニア内戦の終息、1999年のマケドニア、コソボ難民キャンプ暴動問題、2005年の9・19共同声明を作る現場に彼がいた。その生き生きした記録で綴られた。

ヒル氏は2004年9月、駐韓米国大使として初めて光州(クァンジュ)の国立5・18民主墓地を訪れた背景も説明した。ヒル氏が大使に赴任した時は、「女子中学生装甲車死亡事件」や「パトリオットミサイル配備とミサイル防衛(MD)体系構築」問題などで韓国の反米感情が高まっていた時だった。

ヒル氏は、「米国が一時、韓国民主主義の進展を阻止することに手を貸したという認識が広まっていた」とし、「光州を訪れ、民主主義のために戦って消えた人々に弔意と尊敬の気持ちを表わしたかった」と明らかにした。

ヒル氏が核問題を解決した過程は容易ではなかった。「私は北朝鮮次官補のようだ」と冗談を言った彼は、ネオコンとも対立した。それでも彼が忘れないのは、交渉による問題解決だった。



spear@donga.com