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モーツァルトが大司教の側近に足蹴りにされた理由は?

モーツァルトが大司教の側近に足蹴りにされた理由は?

Posted December. 16, 2014 09:27,   

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1781年6月、25才のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは足蹴りにされる。ザルツブルクの統治者だったコロレド大司教の命令によって側近のアルコ伯爵が文字どおり足で蹴飛ばした。この宮廷音楽家を大司教の宮殿から追い出すという象徴的な行為だった。この事件を機に、モーツァルトは荷物をまとめてオーストリア帝国の首都ウィーンに向かう。モーツァルトの故郷ザルツブルクが天才を失った日だった。

なぜ大司教とモーツァルトは決別したのか。安い給料を理由にあげる人もいるが、モーツァルトはザルツブルク市内の別の貴族が3倍の給料を払うといっても応じなかった。核心的な要因は「尊重」と「自由」だった。

幼い頃から欧州各国の君主に謁見し、法王から黄金拍車勲章を受けたモーツァルトは、大司教が自分を単なる召使いとして扱うことが不快だった。決定的な不和に油を注いだのは、大司教が彼の外部活動を妨害したことだった。自由闊達な性格のモーツァルトは、ミュンヘンをはじめ大都市に行って実力を披露したかった。しかし、大司教は自分の「召使い」が思いのままに行動することが我慢できなかった。

この不協和音の損益はどうか。短期的にモーツァルトには損害ではなかった。ウィーンでピアノ協奏曲をはじめ自作曲の演奏会を開き、成功を収めたからだ。その後人気が落ち、困窮したという話もあるが、誇張されているという分析もある。大司教にも損害ではなかっただろう。自分の言うことをよく聞く新しい楽長を選べばいいからだ。損害を被った人がいるなら、それはモーツァルトを失ったザルツブルクの音楽ファンだろう。当時、モーツァルトはすでにザルツブルクの中でも自作曲の演奏会を開き、多くの崇拝者を確保していた。

モーツァルトを送り出したザルツブルクは、今日モーツァルトの都市として全世界から観光客を引きつけている。コロレド大司教と側近のアルコ伯爵が笑い話になっただけだ。絶対主義時代ゆえであり、当時ザルツブルクに元老院や議会があったなら、市民全体が後日、悪く言われるところだった。