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ソウル市の名誉市民になった日本人おじいさんの手紙

ソウル市の名誉市民になった日本人おじいさんの手紙

Posted November. 06, 2013 03:31,   

한국어

先日、ソウル市の名誉市民になりました。韓国とソウルのために、何もできなかったのに申し訳なく、感謝の気持ちを改めて伝えたいと思います。私が、ソウル市の名誉市民になったことについて、日本内では、私と親しい人たちすら、「複雑な」気持ちがあるのがはっきりしています。私が12年、少女の銅像の前で、フルートで「鳳仙花」を演奏したり、元慰安婦のおばあさんらにすまない気持ちで、「人間の罪の歴史」と触れたことについても、よく思わない人たちが少なくありませんから。

私は、外交官でも政治家でもなく、人類文化学者でも哲学者でもありません。しかし、一つだけはっきりしたことがあります。日本は、豊臣秀吉時代以降、日本植民地時代にいたるまで、朝鮮への侵略を考え続けてきたことです。明治維新以降も、「脫亜入欧=アジアから脱し、欧米に組み込まれること」や「富国強兵」などの宣伝文句を強要し、積極的に朝鮮侵略を強行してきました。

このようなことを、無視したり、軽視し、誠実な反省や謝罪が無かったのが、現在の韓日関係をさらに難しくさせる原因だと思います。

第2次世界大戦が終わったあと、日本が敗戦した直後も、とりわけ、朝鮮人や彼らの祖国に対してだけは、罪の意識が生まれず、韓国戦争が起きたときも、戦争特需のために日本景気が蘇ったことを、むしろ喜んだことも、確かにありました。日本植民地時代や東西冷戦時代、そして韓国戦争をただの過去の歴史の出来事と見過ごすこともできるでしょう。私もそうでした。しかし、1968年、初めて韓国を訪れ、ソウルや釜山(プサン)、堤川市(チェチョン)を訪れた時、大きな衝撃を受けました。

ずいぶん長い時間が過ぎたが、依然として日本植民地時代の傷跡が、いたるところに残っており、出会った高齢者らは相変わらず、その時の苦痛や苦しさを覚えていました。

これを自分の家族らにも見せなければならない気がして、1973年、初の海外家族旅行として韓国に来ました。済州道(チェジュド)や釜山、慶洲(キョンジュ)、華城堤岩里(ファソン・ジェアムリ)、東仁川(トンインチョン)、ソウル、春川(チュンチョン)を経てきました。

韓国人たちは、私たちに冷たく接してばかりいたわけではありません。堤岩里教会の女性らは、遠いところから来た私たちが、喉でも乾かすのではないかと、砂糖を入れた水を心をこめて出したりもしました。貧しい暮らしのようだったが、私たちに気持ちをこめて部屋を貸し、ご飯を炊いてくれた人もいました。

私の娘や息子は、鐘路(チョンノ)のタプゴル公園で、白いトゥルマギ(韓国伝統の外套)を羽織ったおじいさんらが、日本帝国の蛮行を刻んだ壁を指しながら、「ここをしっかり見なさい」と言った言葉に、深い印象や衝撃を受けたそうです。日本語を強制に教えられた歴史的証人が、目の前にいたのです。

ここで重要なことは、一つの歴史的事実について、その意味合いを自分のことと感じるか、そうでないかということです。

どのような立場かによって、世界は全く違う方向に流れかねないと思います。私の場合、家族と一緒に堤岩里協会を訪れた時、そこで起きた日本軍による虐殺を、遠い過去の出来事ではなく、「自分のことだ」と認識したような気がします。そう認識することで、「それなら、自分は何ができるか?」という疑問が生まれました。そして、都市産業宣教会の案内で、清渓川(チョンゲチョン)下流のケミ村に導かれ、急激な都市産業化によって苦痛を強いられた人たちを、微力でありながら、支援することになったのです。

政治家らのため、韓日関係が日々悪化しているそうです。歴史的事実がかつての出来事として終わるわけではなく、「自分のこと」として受け入れられるよう、多くの方々の知恵を集めればと思います。心から韓国、北朝鮮、そして日本の民衆らの和合や友好を祈願します。