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[オピニオン]日流の津波

Posted March. 27, 2007 07:48,   

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国内に巻き起こっている日流ブームは尋常ではない。数年前から街角に日本の小説を持ち歩く若者がぐんと増え、昨年は日本の小説が韓国の小説の販売冊数を追い抜いた。静かに韓国の読書層に浸透した日本小説のブームに支えられ、日流は国内の文化コンテンツ市場に本格的に進入してきた。映画『美女はつらいよ』やテレビドラマ『白い巨搭』のような話題作も、日本の原作を土台として製作された。

◆1980年代、国内放送局のプロデューサーは、番組再編時に釜山(ブサン)や日本に駆け付けるのが普通だった。日本と地理的に近い釜山はアンテナさえ立てれば、日本のテレビを視聴することができた。放送局関係者は宿舎に閉じこもって何日も日本のテレビを見、アイディアを絞り出した。このように、日流は以前からあったものだが、2000年代に入って一時、韓流が日流を圧倒した。

◆韓国のクリエイターたちがまた、日本行きの飛行機に乗り込み始めている。日本の文化に原作を求め、素材を得るためだ。振り返ってみると、中国大陸を席巻した韓国ドラマ『愛とは何か』(1992年)は、中国では失われた韓国の家父長的な姿を見せたことが成功の秘訣だった。日本列島を感動させた『冬のソナタ』(2002年)は献身的な純愛で日本人たちを感動させた。その後を引き継ぐ独特で斬新な原作は、まだ現われていない。日本の小説は多様性と想像力が強みだ。純粋文学から大衆小説まで作家の幅が非常に広い。素材の枯渇に苦心する韓国の製作者たちがそれを求めるのも分かる。

◆文学が豊かであってこそ、大衆文化は花を咲かせるものだ。小説『ハリーポッター』があったから、映画『ハリーポッター』がある。韓国文学はしばらくの間、理念、分断、時代の苦痛のような重い政治、社会的な素材にこだわっていた。文人たちが狭い垣根に閉じこめられている間、読者は「読む楽しさ」と「個人の暮らし」を追求する方向に変わっていた。韓国文学はそっぽを向かれており、その空白を日本文学が占めている。「イデオロギーは芸術家の想像力を萎縮させる敵」という劇作家のイオネスコの言葉が的中した格好だ。これからまた始めなければならないが、短期間でできるかどうかは未知数だ。

洪賛植(ホン・チャンシク)論説委員 chansik@donga.com