Go to contents

女性を蔑視する言葉…言葉…言葉

Posted July. 25, 2003 21:53,   

한국어

セクシズム(Sexism):「男たちに閉じこめられた女性」、チョン・ヘギョン著、373ページ、1万5000ウォン、ヒューマニスト刊

「何人兄弟ですか」。生活の中で誰でも1、2度はこうした質問を受ける。ところでこの質問の特徴はそれが対象の性別とは無関係に使われるという点だ。私たちは女性に「姉妹は何人ですか」とは問わない。このように男性型は男性と女性を一緒に含むが、女性型はただ女性のみを示すだけだ。

言語はよく価値中立的対象だと考えられやすい。しかし、私たちの言語やそれを支配する文法は決して中立的ではない。それはいつも特定の集団と対象を抑圧するか、疎外しながら働くからだ。言語に関する唯一の真実はそれが権力的かつ抑圧的という事実だけだ。言語使用の根幹になる辞書も単語に対する客観的意味ではなく、言語の意味や使用方式を支配する「尺度」のみを見せてくれるだけだ。辞書は方言や黒人英語のような「雑多な」言語に対して言及しない。

言語は決して平等でない。言語から女性に対する男性の、黒人に対する白人の、そして少数者に対する多数者の暴力を読み取るのは難しくない。このような言語的不平等は社会的権力関係によって始まるが、不平等な言語はまた抑圧的秩序を永続化させる手段になったりする。そのため家父長的な現実と不平等な言語の形成する循環はとても恐ろしい。言語の権力性は特に男性と女性の非対称性で目立つ。言語の尺度は「男性」であり、女性は男性との関係によってのみ、自分を表現することができる。尺度というのは多数者の基準だが、この際、多数というのは数の多さ、少なさではなく、権力の有無を示す。それで「女教授」や「女流作家」、「女性労働者」という言葉はあるものの、「男教授」「男性作家」「男性労働者」という言葉は存在しない。これは「教授」「作家」「労働者」という総称語が男性と等しい意味に使われるからだ。 同じく「女性の歴史」は存在することができるが、「男性の歴史」は存在しない。歴史はいつも男性の歴史(his−story)だったからだ。権力の言語はいつも無標的だ。

家父長的な社会で成長した男性たちが一番先に習得する俗語の中の一つは性関係を「食う」という動詞で表現する方法だ。女性を「食べ物」として認識する言語使用は英語やドイツ語、フランス語などで共通して表れる。これは男性が女性との関係を「性」を中心に思考するということを示している。絶望的な事実はこうした言語の使用を禁止または、ソフトにするからといって、女性に対する男性の認識が根本的に変わる見込みがないという点だ。認識が変わるためには先に概念と正義、そして言語使用の差別性が解消されなければならない。この本が私たちに示す問題意識の重要な理由はここにある。言語はこっそりとした仕方で人間の思考を統制する。それで言語の不平等を、ひいては現実の権力関係を変化させるためには究極的に尺度そのものの正当性を問題視しなければならない。問題は世界を解釈するのではなく変革することだからだ。

コ・ボンジュン文学評論家、スユ研究室+研究空間「ノモ」の研究員