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[オピニオン] 龍山基地

Posted February. 25, 2003 22:12,   

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龍山(ヨンサン)という地名の由来については、山形が龍に似ているから付けられたとも言われ、漢江(ハンガン)に二頭の龍が現われたことから由来したとも言われる。ソウルの中央に位置する龍山は、北には南山(ナムサン)が、南には漢江が流れ、風水的にも典型的な「背山臨水」の地形である。

朝鮮時代には麻浦(マポ)とともに、政府の税穀や両班(ヤンバン、朝鮮時代の上流階級)の小作米を運搬する京江商人の本拠地であった。1882年、壬午軍乱の隙を盗んで韓国に軍隊を派遣した日本は、1年間測量作業を行い、麻浦、楊花津(ヤンファジン、現在の合井洞)、龍山の3つのうち龍山を開市場にすることにした。

▽楊花津は閑静な村だったため、貿易港として盛るための条件が充分でなく、麻浦は人家が多く空き地がなかったと伝えられる。龍山は南大門(ナムデムン)から10里ほど離れた所にあり、道が広くて平らで、車が通りやすかった。ほとんどが畑で開発の余地も多いうえ、漢江の水深が深くて大きな船舶も入港することができた。日本の主導で1884年、龍山(元曉大橋の北端)渡し場から麻浦渡し場までが、外国人の居住や通商を認める開市場に指定され、1887年に宣教の自由が認められると、元曉路を中心にフランス人、中国人、日本人が宗教や商業活動を展開した。

△龍山に外国の軍隊が初めて入ってきたのは、13世紀である。高麗時代の末期、韓半島に侵入したモンゴル軍は龍山を兵站基地として利用した。文禄の役の時は、日本軍が元曉路と青坡洞一帯に陣取った。また、1882年の壬午軍乱では清軍3000人が駐屯し、1904年の日露戦争では日本軍が約300万坪の土地を取り上げ兵営を設置した。

独立後は、米7師団1万5000人が日本軍の兵営を受け継ぎ、現在の在韓米軍司令部に発展した。日本軍から数えても龍山に外国の軍隊が駐屯してから100年になる。龍山一帯を指す梨泰院(イテウォン)という地名は、本来の漢字表記が「異胎院」で「胎の異なるところ」という意味があり、地名にも基地村として歴史が残っている。

▽日本軍が兵営を建てるまでは、一帯がすべて畑だった龍山は、ソウルの拡張とともに、漢江の北と南をつなぐ都心の中心地となった。首都ソウルの中心に外国軍の基地があり、国の体面もつぶれ都市の発展にも支障を来していることから、韓米両国の間で米軍基地の移転に関する協議が始まった。事業費もかなりかかり、時間的にも10年以上はかかる事業である。首都が忠清道(チュンチョンド)に移転すれば、「首都内の米軍基地の移転」という名分は多少薄れることになるが、果して今後どうなるだろうか。

ファン・ホテク論説委員 hthwang@donga.com