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最大の努力を傾けろ

Posted June. 08, 2020 09:56,   

Updated June. 08, 2020 09:57

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儒学では、人間の心を「人心」と「道心」の2つに分けて呼ぶ。人心は気質、すなわち身体の影響を受ける側面で、道心は純粋で善良な本性の側面だ。道心は善だが、人心は善にもなれ、悪にもなれる。人心は欲求や感情と直結しているためだ。欲求を抑えて感情をうまく制御すれば善だが、そうでなければ悪に流れる。

哲学概念なので多少複雑だが、簡単に次のように考えるといい。人間の内面には純粋で善なる本性がある。同時に人間は喜怒哀楽のような感情を持ち、力や名誉、財物、安らかさに対する欲望を所有している。食欲、性欲、睡眠欲のような原初的な欲求も存在する。人間としてこのような感情、欲望、欲求がないということはなく、また、それを否定する必要もないが、これをうまく抑えて正しく作動するようにしなければならない。そのうえ、人間の欲望は非常に強力で、時をわきまえず心を危うくさせる。一度欲望を克服したからといって終わりではない。人間の欲望はいつでも芽生えるものだ。そのため、誠実に地道に努力し、今この状況で最も適切な「道」である「中道」に向かって進まなければならない。たとえば、自分が王位に就いたと想像してみよう。当然、最初は歴史に永遠に名を残す聖君になると覚悟を決めるだろうが、多くの君主がこの誓いを最後まで守ることができなかった。序盤には立派な業績を成した人も、後になればなるほど乱れて崩れる姿を見せることが多い。

代表として、唐の太宗(在位626~639)と玄宗(在位712~756)を挙げることができる。太宗と玄宗はそれぞれ「貞観之治」「開元之治」と記録される繁栄期を成した人物だ。しかし、彼らはいずれも後半に誤りと失策を犯し、特に玄宗は贅沢と享楽に陥り、奸臣を寵愛して国を大混乱に陥れた。実際、君主は欲望に陥りやすい環境に置かれている。人の心で、欲望よりも制御しにくいものはない。それでも一般の人たちは法が怖くて、あるいは境遇が伴わなくて、欲望のおもむくままに行動できない。欲張るにしても、欲張るだけの位置になって可能なことだ。では、君主はどうか。強大な権力を持ち、法を恐れる必要もない。その気になれば何でも享受することができる。だから怠けるようになり、自分勝手に行動しやすくなる。うぬぼれて我執にとらわれる可能性が高い。

このため、王は何よりも心の中心をつかんで、心を守らなければならず、誤った考えが芽生えでもすれば、直ちに反省して正さなければならない。問題は一人の力で心を引き締めることが難しいということだ。誰が何も言わなくても反省し、自ら心を清く正しくすることは、君子や聖人の境地だ。多くの人は、省察の契機がなければならず、周囲で刺激を与えなければならない。普段から他人の直言を聞いて自身を振り返り、他人の諌言をわざとでも聞いて自ら反省する態度を習慣化する必要がある。
 
王の立場で説明したが、これは誰にでも該当する教訓だ。職場に初出勤する時、新しいプロジェクトを始める時、この時から怠ける人はない。他人が驚くほど上手くやると、必ず成功して良い結果を出すと心に決める。そうするうちに次第に惰性に浸り、安らかさを追求し、初心はどこかに消えてしまう。

「始勤終怠 人之常情」。初めは勤勉だが、後で怠けるようになることは人の属性という意味だ。怠けることを防ぐために、会社では成果給を与え、昇進と年俸の引き上げで動機を付与する。懲戒手続きを設けて緊張を維持させる。しかし、これだけでは心の放縦を防ぐことはできない。日々省察して反省する努力と他人の声に耳を傾ける傾聴を並行させなければならない。そのような一日一日が積もり積もってはじめて、始まりもうまく、締めくくりもうまくできるだろう。