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光海君から高宗まで…朝鮮王室の拓本、300年の歴史に出会う

光海君から高宗まで…朝鮮王室の拓本、300年の歴史に出会う

Posted October. 08, 2019 08:41,   

Updated October. 08, 2019 08:41

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背景の水色のシルクに似合う墨色が厳かだ。当代屈指の文章家が文を作り、名筆が文字を書いた上、最高レベルの職人が石に刻んで墨を塗った後、絹で表具した朝鮮王室の拓本(石碑と木版を墨で塗ったり、文字を書き写したもの)の様子だ。

韓国学中央研究院は8日から12月21日まで、京畿城南市(キョンギ・ソンナムシ)研究院の蔵書閣で朝鮮王室文化の真髄の一つである「朝鮮王室の碑石と誌石の拓本」の特別展を開催する。展示品は、光海君(クァンへグン)の代から大韓帝国時期まで、約300年間制作された王室拓本556点のうち、美しく且つ重要な45点を選んだ。奉謨堂(ポンモダン・1776年に正祖が設置した奎章閣施設)に奉安後、研究院が所蔵しているこれらの拓本の実物が大量に観客に会うのは今回が初めてだ。

王陵の碑石と誌石は、製作当時、王室主導で拓本を作って保管したので、拓本を通じて原形を知ることができる。王陵を作るときは、墓の主人を知らせる碑石を立て、亡者の生涯を記録した誌石を地中に埋める。誌石は発掘しない以上見ることができず、碑石も時間が経つにつれ、摩耗する。

展示品の中で最も大きいのは、太宗献陵(テジョン・ホンルン)の神道碑の拓本で、横が約149センチ、縦が約333センチだ。1424年に立てた神道碑をもとに、粛宗(スクジョン)の時だった1695年に再び刻んだ碑を拓本したものだ。碑文の前面は、太宗と元敬(ウォンギョン)王后の功徳、子孫に関する文が盛り込まれており、裏には建設履歴をはじめ、開国功臣など複数の功臣のリストを記録した。

英祖(ヨンジョ)が、後宮・靖嬪李氏の墓碑を作るために、自ら書いた表格紙も見ることができる。表格紙は、墓碑を作る前に文字を一文字ずつ四角の欄に並べて配置した紙だ。碑文の主人公は、二人の娘と長男孝章(ヒョジャン)世子を生んだ靖嬪李氏だ。8歳の時に宮に入ってきた同い年の「ソウルメイト」の死を惜しんだ英祖が文を作り、文字を書いた。

板石ではなく、青華白磁で焼いた玄宗時の誌石の試作品3点も、今回初めて公開する。誌石として使われた板石は、通常、縦横が1.5メートルの大きさで、制作と移動のための民の苦しみは少なくなかった。玄宗が孝宗の寧陵(ヨンルン)を驪州(ヨジュ)に移す際、誌石を試験的に陶磁器で作って、板石と一緒に埋めた。平安道ソンチョンと慶尚北道慶州(キョンサンブクド・キョンジュ)などの白土で試作品を3つ作ったが、記録と特徴が一致したため、今回展示する誌石は玄宗が御覧になった試作品とみられる。以後誌石としては板石を使い続けたが、王室は試作品を保管し続け、後でこれを見た英祖が、貞聖(チョンソン)王后の崩御時からしばらくの間、清華白磁で誌石を作った。

昨今では実物を自由に確認できない北朝鮮地域の朝鮮王室紀蹟碑の拓本も展示に出る。紀蹟碑は、肅宗以降、王室中心の歴史を強調して朝鮮の創業に関する場所に建てたもので、そのほとんどが黄海道開城(ファンヘド・ケソン)や咸鏡道(ハムギョンド)地域にある。讀書堂舊基碑の拓本は、太祖・李成桂(イ・ソンゲ)が本を読んでいた咸興(ハムフン)東側の歸州(キジュ)雪峰山(ソルボンサン)の草堂の跡地に、1797年に再び立てた記念碑の拓本だ。文も文字もすべて正祖のものだ。

伝統的に最高級である粧潢の本当の姿も知ることができる。粧潢は、書画に絹や厚手の紙を塗って、掛け軸、屏風、巻物などの形で飾るものだ。パク・ヨンマン韓国学中央研究院蔵書閣王室文献研究室長は、「粧潢に使用されたシルク、絹文様、縦横の比など、日本植民地時代を経て失われてしまった伝統粧潢の原形を確認できる」と強調した。


趙鍾燁 jjj@donga.com