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弱者の悲劇

Posted May. 18, 2021 08:05,   

Updated May. 18, 2021 08:05

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イスラエルとパレスチナの対決が、戦争並みに突っ走っている。1948年5月14日にイスラエルが建国を宣言すると、その翌日に第1次中東戦争が勃発した。しかし、イスラエルとパレスチナの武力衝突は、その前の1920年代から続いていた。19世紀末、ユダヤ人たちがパレスチナに戻り始めたとき、ここはオスマン帝国に治められていた。第一次世界大戦が終わってからは、英国の委任統治地域となった。パレスチナ人は素朴で純朴な農夫たちだった。彼らは、外の世界で起こっていることについてはあまり知らず、国を建てなければならないという運動もあまりにも遅く起きた。1930年代、著名な指導者だったアル・フセイニは、「敵の敵は味方」という論理によってドイツに渡り、ヒトラーに支援を要請した。

第一次中東戦争が勃発した際、パレスチナは国家的結束を維持する政治的指導力や組織もなかった。アル・フセイニとその側近たちは外国にいた。イスラエルは、軍事組織を統合して国防軍を組織した。パレスチナは、そのような組織もほとんどなく、ゲリラ民兵隊組織すら微弱な水準だった。第1次中東戦争はパレスチナ保護の名分でヨルダン、エジプト、シリア、イラク、レバノン軍と義勇軍のアラブ解放軍組織が戦争を主導した。誰も本気でパレスチナを助けるつもりはなかった。ヨルダンはパレスチナを併合しようとした。パレスチナ国家の樹立を望んだ国があるのか疑わしい。

その間、イスラエルは領土内のパレスチナ住民を追い出し、村を破壊した。その過程で「悪いこと」も多くした。破壊した村が存在した記憶を消した。今もイスラエルのあちこちに、その時に消えた村の跡が木だけの小山、道路周辺の空き地、墓地などとして残っている。昔の地図と照らし合わせなければ、村があったという痕跡すら見られない。強者の暴挙も非難しなければならないが、弱者の悲劇も教訓に刻まなければならない。弱者になって非難するよりも、弱者にならないことがより重要だ。