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天の果ても隣人

Posted February. 26, 2021 08:07,   

Updated February. 26, 2021 08:07

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友人は長安を離れ、蜀の地に赴任するところだ。長安からはるかに遠い西南の四川地域だ。朝廷から外職に出ることが必ずしも左遷であるはずはないが、華やかで安全な首都を離れ、辺境地に向かう友人に詩人は慰めの言葉をかけたかった。絶えず他郷をさまよう運命を甘受しなければならないのは、官職人生の避けられない選択。詩人も「いつでもどんな理由であれ、さすらうことができる」という同じ境遇でもあっただろう。友よ、この世に出て気の合う人がいる限り、どんなに遠く離れていても、まるで隣人のようにお互いに心が通じ合うものだよ。私たちは喜んでお互いの知己であることを自任しながら、今日の別れを淡々と受け入れよう。別れの分かれ道で詩人は、子供のように涙を流さないようにしようと誓うが、実は惜別の情に満ちた優しい友情には、すでに涙が溜まっていることを逆説的に示している。

「世の中に自分を認める人がいれば、天の果てにいても隣人のようだ」は、人の間に空間的距離より心理的連帯感がもっと重要だという教訓としてよく活用される名句だ。前の時代の曹植が、弟の曹彪に送った詩句「大の男が世の中に志したとすれば、万里も隣人と同じだ」から由来した表現だが、王勃が巧みに換骨奪胎させた。

成均館(ソンギュングァン)大学名誉教授