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蝉の最期のように

Posted January. 25, 2023 08:46,   

Updated January. 25, 2023 08:46

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すべての生命は死を迎える瞬間まで生に執着する。それが本能だ。蝉も例外ではない。もう飛ぶことができず、木にぶら下がることもできない蝉は、腹を上にして地面に横たわり羽をばたつかせる。空に向かって腹を見せて横たわっているということは、死が近づいているという意味だが、蝉が虚しく羽をばたつかせることは息が絶えるまで続く。虚しくとも、執着が生命の本質なのだ。

詩人シン・ボソンの「良いこと」は、そのような蝉の死に関する詩だ。「今日、私がしたことのうち良いことの一つは/一匹の蝉が地面で腹を上にして/ゆっくり死んでいくのを見守ったこと」。詩人は蝉が徐々に死んでいく姿を見守りながら、命の無常さを感じたようだ。しかし、泣きたい気持ちになっても泣かなかった。「涙を流したかったが、涙が流れなかった/それも良いことのうちの一つ」。悲しい感情を押し殺したということだが、なぜそれが良いことなのか。魂が静かに旅立つことができるようにする配慮からか。わかり得ないことだ。

やや誇張されているように見えるが、蝉の死に関する詩は人間に関するアレゴリーと理解できる。人間も時が来たら地上での生活を終え、天に頭を向けて横たわる。そして蝉の最期のように本能的に命を続けようとする。蝉も人間も最期が虚しいのは同じだ。その姿を見守るのは詩人の言葉のように悲しいが良いこと、いや当然のことだ。愛する人の人生に敬意を表し、別れの挨拶をする方法だから。蝉が羽をばたつかせるように苦しいもがきが終わると、私たちはフロイトの言葉のようにリビドー、すなわち心理的エネルギーを通じて私たちとつながったその人との記憶を一つ一つ思い出し、追悼し始める。詩人の言葉のように悲しくても涙を流さないことが良いことだろうか。わかり得ないことだ。追悼の仕方はそれぞれ異なるものだから。方式がどうであれ、私たちは「追悼するという想いの中で相互に存在する」。ジャック・デリダの言葉だ。