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豚と赦し

Posted September. 28, 2022 08:53,   

Updated September. 28, 2022 08:53

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憎しみが過ぎると平静を失う。フランスのユダヤ人哲学者ウラジーミル・ジャンケレヴィッチがそのケースだった。ジャンケレヴィッチは、学問的な文章でも放送でもそうだった。「彼らは600万人のユダヤ人を殺した。しかし、彼らはよく眠り、たらふく食べ、裕福に暮らしている」。凶悪な犯罪をしたなら、苦しみ、貧しく暮らしてこそ正常だが、ドイツ人たちはむしろ「経済の奇跡を通じて肥え太っている」と言うのだ。「赦しはあきれた冗談である。赦しは豚どもやその雌どものためにはなされない」。

フランス語の教師だったドイツの若者がジャンケレヴィッチの言葉をラジオで聞いて手紙を送った。彼は自分がユダヤ人を殺さず、ドイツ人として生まれたことは自分のせいではないと言った。そして自分はナチスの犯罪とは何の関係もないが、だからといってそれが慰めにはならないと言った。「私の良心はきれいではない。私は恥と憐憫、諦めと悲しみ、懐疑と嫌悪感を覚える。私はよく眠ってもいない」。ジャンケレヴィッチがドイツ人を豚と表現して見落としたのは、その青年のようにナチスの野蛮な行為に罪の意識を感じ、時には眠れず、悪夢を見て、食事ものどを通らない人々がいるという事実だった。その青年がどうして豚なのか。

ジャンケレヴィッチは憎しみのため平静を失い、自ら矛盾の中に入っていった学者だった。赦せないことを赦さなければならない義務について語りながらも、20年後には自分の言葉を覆してドイツ人を豚と表現し、赦しはないと言い放ったことは、憎しみの過剰のためだった。ジャンケレヴィッチの仲間のフランスの作家は、ジャンケレヴィッチの憎悪を恥ずかしく思い、ドイツの青年に謝罪した。「狂信的なユダヤ人はナチスと同様に悪い」。彼の言う通り、ジャンケレヴィッチは憎しみが過ぎたあまり、似てはならないナチスに似ていった。憎悪の過剰がジャンケレヴィッチの心に狂気を持ち込んだのだ。憎悪の過剰を警戒しなければならない理由だ。どれほど正しいことであっても。