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客観的という形式主義

Posted August. 16, 2022 09:00,   

Updated August. 16, 2022 09:00

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壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の初期、絶望的だった戦況を変えたのは、朝鮮水軍の勝利だった。李舜臣(イ・スンシン)は1回目と2回目の出陣で相次いで勝利し、宣祖(ソンジョ)に建議事項を挙げた。褒賞方法に関するものだった。

朝鮮の法に、軍功を立てた者を褒賞する基準は敵の頭だった。敵を殺した証拠を持ってくれば、それを基に褒賞した。これは古代中国で用いられていた方法である。歩兵たちがスクラムを組んで戦った戦争であれば、このような褒賞法は意味があっただろう。しかし、戦争はさらに進化した。特に海戦は、敵軍一人ひとりを殺すのではなく、敵艦を撃破して船から敵軍を追い出す戦術的な動きが重要だった。李舜臣はこれを指摘したのだ。本当に勇敢で立派な武将は敵船、それも重要な敵の旗艦を攻撃して破壊する武将だ。ところが難破した船の敵軍は海に落ちる。戦闘中に彼らを見る暇もない。ところが、このような将兵は、証拠がないという理由で褒賞することができない。逆に戦場の後方にいて、水上に漂う遺体を拾う兵士たちは褒賞される。

李舜臣は頭の数で褒賞する方法の代わりに、戦闘での活躍を指揮官が見て推薦する人を褒賞することを進言した。宣祖は言下に断った。証拠がない、客観的ではないということだった。しかし本音は、李舜臣が褒賞権を利用して軍を私兵化し得るという疑いのためだった。このような疑いも幼稚だが、客観的ではないという主張について考えてみたい。現代人も意外と多くの人が宣祖の主張に同調する。「評価は客観的でなければならないのではないでしょうか?」「主観的評価は証拠がないでしょう」。李舜臣の進言の要旨は、敵の頭はまともな戦功の証拠にならないということだ。それでも人々はためらう。「物証がないといけないんじゃないか」

人文学の教育が必要なのは、物事の本質を見抜く能力を育てるところにある。しかし、韓国の教育は本質の代わりに、単語と固定された価値に埋没させるために、より多くの力を注ぐ。今、韓国社会があっけない対立と敵味方に分けて分裂しているのも、誤った教育のせいではないだろうか。