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ロダンの矛盾した選択

Posted October. 28, 2021 08:20,   

Updated October. 28, 2021 08:20

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オーギュスト・ロダンは58歳の時に完成したオノレ・ド・バルザックの彫刻像のために政治的危機に陥る。今は「最も偉大な19世紀の彫刻」と評価されるが、当時は多くの非難を受け、依頼主に拒絶されるという侮辱を受けた。敏感な政治スキャンダルにも巻き込まれた。いったい何があったのか。

莫大な借金を返すために昼夜を問わず執筆したバルザックは、51年の生涯で100編を超える作品を残し、フランス写実主義の文学の巨匠となった。1891年、フランス文人協会はバルザック死去50年を記念する彫刻像をロダンに依頼した。協会の会長に選出されたエミール・ゾラの推薦だった。ロダンは、事前調査の4年を含め作品の完成に何と7年を捧げた。バルザックの顔や体形、服だけでなく、性格や生活習慣まで研究し、最終バージョンの石膏像を1898年、サロン展で公開した。作品を見た人は驚いた。マントをまとって月光を受けて立つ文人の姿は、細部の描写を省略した大胆で荒っぽい表現のため、雪だるまやヒキガエルに似ていると嘲弄された。協会は、偉大な文人に対する畏敬の念どころか侮辱感だけを抱かせるとし、作品の引き取りを断った。仲間の芸術家たちがロダンを助けようと立ち上がった。青銅像の制作の募金運動をしたが、これはかえってロダンを窮地に追い込んだ。募金参加者の多くが、ドレフュス支持者だったためだ。当時、フランス社会はスパイの汚名を着せられたユダヤ系の若い将校ドレフュス事件で二分した。反ユダヤ主義感情を持つ保守主義者たちはドレフュスの有罪を主張し、進歩的知識人たちは無罪だと対抗した。ドレフュス反対派だったロダンは苦しい立場となった。

最終的にロダンは、作品を非難した人々と一つになる道を選んだ。作品代金を返し、彫刻像を自宅に保管した。石膏像が青銅で制作され、日の目を見たのはロダンの死後22年が経ってからだった。