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「他者の涙」

Posted September. 29, 2021 08:10,   

Updated September. 29, 2021 08:10

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ベルギーを背景とするチョ・ヘジン作家の長編小説『ロ・ギワンに会った』には、奇妙な要請をする韓国人医師が登場する。彼は妻と死別した。だが、自然死ではなかった。彼は、肝臓癌末期だった妻がとても苦しむため、薬と酒を混ぜたグラスを置いて部屋を出た。飲むのか飲まないのか妻が選択できるように。妻は自ら生涯を終えた。その後、彼は医師を辞め、自分の行動が正しかったのか何度も自問し、5年が経った。

ある日、彼は妻に似た女性に頼む。「思ったよりも大丈夫だったと、それほど苦しくなかったと、一度言ってくれませんか」。薬を飲んで死ぬことが思ったより苦しくなかったと言ってほしいというのだ。いくら似ていても、死んだ妻に代われるだろうか、死んだこともないのに死ぬ経験をどうして話せるだろうか。

 

しかし、彼のやつれた目にたまった涙を見て、その要請を無視できない。グラスを置いて部屋を出て、再びドアを開けた時、「彼が向き合わなければならなかった一つの生涯の終わりと骨が切り刻まれるような喪失感」を彼の涙で見たのだ。彼女は、自分を死んでいく彼の妻だと想像し、彼の耳元でささやく。「眠るように安らかだったと、死ぬという意識もなく全てが自然で苦痛は全くなかったと」。彼を慰めることができるなら、事実でなくても構わない。すると彼は、目元口元まで妻に似た彼女の顔をさわって話す。「苦労した。苦労が多かった」。妻にできなかった別れの挨拶がようやくできたのだ。

女性は、以前は彼の話を聞いて、「尊厳性と生命を交換した」、つまり殺人をしたと批判したが、今はただ抱きしめる。安楽死の倫理性という談論とは別に、彼の涙の前で判断を留保したのだ。これが、エマニュエル・レヴィナスが言う「他者の涙」の威力だ。そしてその涙に屈服するのが倫理だ。