Go to contents

許しが未来だ

Posted June. 16, 2021 08:16,   

Updated June. 16, 2021 08:16

한국어

加害者に向けても憐憫の感情を失わない人々がいる。ノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデズモンド・ツツ聖公会司教がそれだ。氏の憐憫は、自分の弱さを認めることから始まる。

彼がナイジェリアを初めて訪問した時のことだった。氏は、ナジリア人が操縦する飛行機に乗って移動しているところだった。黒人が飛行機を運航するのは、アパルトヘイト政府では想像すらできないことだった。うらやましくもあり、同じ黒人という事実が胸いっぱいだった。ところが、飛行機が乱気流に巻き込まれて、高度がぐんと落ちた時だった。「操縦席に白人は誰もいないがどうしよう。黒人パイロットたちがこの悲惨な状況から逃れることができるだろうか」。彼は思わずそう考えていた。彼は誰なのか。黒人が白人に頼らず両足で立つことができると先導する黒人意識運動の指導者だった。それにもかかわらず、白人が優越だという考えを無意識に受け入れていたのだ。

彼の要旨は、私たちがどれほど簡単に支配的な情緒に惑わされ得る存在かを振り返り、他の人々に寛大になろうということだ。「神様の恩恵がなかったら、私も同じ立場だっただろう」と思って、加害者たちを憐憫の目で眺めようというのだ。しかし、黒人に残酷なことをした白人をどうやって許そうというのか。復讐しても気持ちが晴れないのに許すとは。自国民族に犯罪を犯した者らを、半世紀が過ぎても地球の果てまで追いかけ、断罪するユダヤ人に賛辞を送るのが世の中だ。しかし、彼は復讐心に満ちたユダヤ人のやり方に同意しなかった。むしろエルサレムのホロコースト博物館を見て、「同じユダヤ人だったイエス様なら、許しはどうなったかと聞かれただろう」と応酬した。右翼のユダヤ人たちから「黒人ナチスの豚」と非難されながらも、「許されなければ未来もない」と述べた。許しこそ未来だった。まさにこれが「真実和解委員会」の基本理念だった。世界史に例のない輝かしい「許しの政治学」だった。

文学評論家・全北(チョンブク)大学碩座教授