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損だけした光海君の取り引き

Posted October. 20, 2020 08:27,   

Updated October. 20, 2020 08:27

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ヌルハチが遼東で明の勢力を追い出すと、1621年、明の難民の一部が朝鮮に逃げてきた。彼らの指導者が毛文龍だった。サルフの戦いで軍事力に大きな打撃を受け、後金の侵攻の脅威に苦しんでいた光海君は悩んだ。彼らを受け入れて同盟軍として活用することができるだろうか。反対に彼らを受け入れることで後金の侵攻を誘発しないだろうか。彼らは朝鮮の地を占拠しようと来たのではないだろうか。

1623年、光海君は毛文龍を説得し、平安道鉄山(ピョンアンド・チョルサン)沖合にある椵島(カド)に行かせた。この時から毛文龍は朝鮮にとって頭の痛い存在になった。毛文龍は、遼東で100万の難民を受け入れて勢力を育て、明と協力して遼東を奪回すると豪語した。時折、軍隊を率いて鴨緑江(アプロクカン)を渡り、後金を打つふりもした。

最初の頃は光海君と仁祖は毛文龍の軍事力に一抹の希望を持った。しかし、毛文龍に会った官吏は皆首を横に振った。軍隊というよりも難民、烏合の衆だった。さらに苦しいことは、朝鮮に対する絶え間ない要求だった。「兵糧をくれ」、「貿易をしてほしい」という要求が受け入れられないと、兵士を送り、民間地域を略奪した。丁卯胡乱が終わった後、露骨に朝鮮の領土を狙い、暴力、略奪行為も増えた。

毛文龍は陰湿で凶悪な野心家であり、詐欺師だった。朝鮮が危うい時に助けることはなかった。しかし、振り返って見ると、毛文龍の軍隊は全くでたらめな軍隊というわけではなかった。毛文龍が死ぬと、残存兵士は後金に投降するが、後金で非常に重要な活躍をした。難民を集めて軍閥勢力になるほどの手腕もあった。

毛文龍の人格は非難されて当然だが、次のような反省をしてみることもできる。なぜ毛文龍を利用できなかったのか。彼の軍隊が持つ潜在力はなぜ把握できなかったのか。なぜ後金に侵攻され、いつも損をする取り引きをしたのだろうか。国際関係で相手の人格に依存することは正常な態度なのだろうか。答えはこうだ. 世の中を善悪の構図だけで見て、国際情勢に無知で、国内政治の利害関係だけ考え、実務は知らず、理念にだけ執着する官僚が多かったためだった。