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戦術的失敗の結果

Posted September. 22, 2020 08:35,   

Updated September. 22, 2020 08:35

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ナポレオンは1812年9月14日、モスクワに入城した。戦争を開始して3ヵ月後に数千キロを進軍して果たした成果だった。ナポレオンのロシア遠征は、ロシア平原にばら撒いた無慈悲な血と犠牲で多くの非難を受ける。間に行われたいくつかの戦闘も、半分の成功にすぎなかった。ロシア遠征はナポレオンの名声を落とす大失敗と記録される。しかし、モスクワに入城するまではナポレオンの成功を低評価するレベルでは絶対ない。

ナポレオンの進撃速度は、後に機械化軍団を前面に出したドイツ軍も達成できない速度だった。ドイツの場合、モスクワに直進せず、レニングラード(現サンクトペテルブルク)とウクライナで右往左往し、モスクワ攻撃が遅れたというが、最初からモスクワに向かって進撃したとしても、モスクワ入城までの時間はナポレオンとそう変わりはなかっただろう。

 

悲劇は入城後に始まった。ナポレオンはモスクワを占領すればロシアが協議に入ると考えたが、ロシアはびくともしなかった。ナポレオンの戦略的構想は完全に誤っていたことが証明された。ナポレオンはこれを認めず、また認めることもできなかった。戦略をあきらめることも戦略を達成する新たな戦術的手段も構想せず、モスクワに閉じこもって交渉使節が来ることだけを待っていた。35日間の生ぬるい対応の末、ナポレオンは失敗を認めて撤収を始めた。しかし、すでに冬が近づいていた。冬将軍とロシア軍の追撃で、ナポレオン軍は深刻な損害を受けた。モスクワに入城した兵士の中で生き返った兵士は10分の1にすぎなかった。ナポレオンが1週間早く出発していたなら、生存者が数倍多かったという推定もある。最後の1週間だけで数万人が凍死した。

戦術的失敗は戦闘の結果ですぐに証明される。戦略的失敗は把握することも難しく、認めることはより難しい。敗戦と失敗が度重なっても、現実に目を閉じる。最後の勝者は私たちだという確信。「私たちは今苦戦しているが、私たちは正しい方法を使っている」という信頼が究極的な破滅を招く。

 

ナポレオンも皇帝になる前までは、機敏で正確だった。ナポレオンの敗因は手にした権力だった。権力中毒は麻薬より恐ろしい。