Go to contents

朝の食卓

Posted September. 19, 2020 08:26,   

Updated September. 19, 2020 08:26

한국어

 

現代時調とはまさにこういうものだ。何気なく詠んでみると自由に書いた作品のようだが、じっくり詠んでみると何か感じる。本来、「感じ」とは、風に染みる香りのようなものだ。私たちは自由な文字の遊泳の中で、形式の節制が溶け込んでいることを感じることができる。各連が3行を繰り返すという点に注目しよう。ぶつぶつ詠んでみると韻律も感じられる。つまり、千年の形式と現代の叙情が結合したジャンルがまさに現代時調ということになる。

よく時調は年配の人がするものと考えられているが、これは事実でない。時調だからといって詩想や素材に縛られることはない。むしろどんな規則でも叙情を解きほぐすことで詠む面白味が見出せる。この作品は、馴染みのある私たちの風景を含んでいる。食卓に集まって食事をするが、各自孤独で各自不安な姿は昨日の我が家、明日の隣家で目にすることができる。話はあるが意味がない、一緒にいるが心は通じない状況は、一家庭だけのことではない。現代のすべての人間は本質的に不安で孤独だ。人と世の中が本来そうなのだと、どれほど多くの哲学者が言ってきたことか。

問題は、その当然の事実が当然には受け入れられないということだ。孤独だが孤独でいたくない。不安だが不安になりたくない。話をしても通じないが意思疎通したい。この矛盾の中で私たちは今日も生きている。それゆえ「皆が去って残された食卓が島のようにさびしい」という言葉が心に残る。その食卓を私たち皆がよく知っているからだ。

文学評論家