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音を失いたかった

Posted June. 03, 2020 08:32,   

Updated June. 03, 2020 08:32

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映画が終わってから続く結びの字幕に、見知らぬ献辞が繰り広げられる。「目で話して聞く母と父に」。では、監督の親も映画の中の親のように聞くこともできず、話すこともできないろうあ者だったのだろうか。監督も、映画の中の主人公の少女のように、聞くことも、話すこともできない人になりたかったのだろうか。

最近上映されているキム・ジンユ監督の映画「私はボリ」は、このことからスタートする。家族の中で唯一ろうあ者でないボリは、毎日声を失うようにしてもらいたいと祈る。母と父、弟が手話でコミュニケーションをする姿を見れば、羨ましくて疎外感さえ感じる。それほどナイーブであるということだ。祈りをしても応答がなかったため、ボリは、イヤホンをはめて音量を最大限に高めたりもするが、意のままにならない。ボリは、ついに海に飛び込む。水仕事を多くこなした海女の耳のように、音がよく聞こえなくするためだ。だからといって、ろうあ者になることは起こらないが、ボリは音を聞けず、話すこともできないふりをしながら、ろうあ者としての生活を体験することになる。

障害者の家族を扱った映画といえば、傷を証言し、観客の同情に訴えそうだが、「私はボリ」は、全くそうではない。映画は、彼らの生活の中で必要なのは同情ではなく、あるがままに彼らを見てあげることだという事実を静かに説得する。障害者を異なると見ることのほうが、さらに差別だというのである。映画は、障害者の家族が他の家族と変わらない、いやそれ以上に睦まじく、より温かい愛でお互いを包みながら生きていく姿を示すことで、彼らの人生は、凡人の人生と変わらないという事実を証言する。その証言には、叙事の権威がある。監督自身がそのような人生を送ってきたから可能な権威だ。ボリのように、監督も親がろうあ者である。そしてボリのように、監督も子供の頃から音を失いたいと思った。重要なのは傷や絶望からではなく、家族が作り出す愛に参加したいがために、音を失いたいと思ったのだ。この映画が差別や傷ではなく、愛の映画である理由だ。

文学評論家・全北(チョンブク)大学教授