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雲門寺と花郎の誕生

Posted March. 09, 2021 08:25,   

Updated March. 09, 2021 08:25

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慶尚北道清道郡(キョンサンプクト・チョンドグン)にある雲門寺(ウンムンサ)は新羅時代に創建された由緒深い寺院だ。現在は尼僧専門講院の雲門僧伽大学があり、雄壮ながらも静粛な雰囲気を維持している。

雲門寺は長い歳月、軍事的に重要なところだった。三国時代にここには5つの寺院が布陣していた。円光(ウォングァン)法師が貴山(クィサン)と箒項(チュハン)に世俗五戒を下した嘉瑟寺(カシルサ)がその一つだ。雲門寺という名前は、高麗の太祖王建が下賜した。王建は、雲門寺北方の聞慶(ムンギョン)、振威(チンウィ)、青松(チョンソン)地域で、後百済の甄萱(キョンフェン)と何度も血戦を繰り広げた。この時、後方の雲門寺勢力が王建を支援したようだ。

 

高麗末期、金沙彌(キム・サミ)・孝心(ヒョシム)の乱が起こった場所もここであり、韓末の義兵抗争期には、崔世允(チェ・セユン)義陣の地域分隊が雲門寺に設置された。1908年、権秉鎬(クォン・ビョンホ)の部隊も雲門山に潜伏して活躍した。雲門寺が位置した迦智(カジ)山は、慶州(キョンジュ)・蔚山(ウルサン)から大邱(テグ)・慶山(キョンサン)地域の間に位置している。2つの圏域を結ぶ要地であり、険しい山が重なり合っていて、防衛戦やゲリラ活動に非常に有利な地形を提供する。

 

円光法師の世俗五戒に「臨戦無退」があることが、以前はただ貴山と箒項が花郎、武士だったからだと考えた。しかし、ここの地形を見ると、それ以上の意味があるという気がしてくる。三国が戦国時代に入った時、ここは新羅の前進基地になることも、最後の防衛線になることもできる場所だった。円光法師がここにとどまり、ここで花郎道(ファランド)が誕生したことは偶然ではなかったのだ。

花郎道は、新羅の戦争に大いに貢献した。表向きには「臨戦無退」という戒律が大きな役割を果たしたようだが、本当の機能は骨品制という閉鎖的な政治体制の外縁を拡張させたことだった。しかし、新羅の成功後、花郎道は廃止される。理由は2つのうちいずれかだ。花郎道が初心を失ったからか、新羅の真骨勢力が花郎道を排除したからか。いずれにせよ教訓は同じだ。権力者が欲を出したことで、権力を与えられた理由を忘れたからだ。権力はいつこの輪廻のループから抜け出せるのだろうか。