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ラフマニノフ交響曲第2番は作曲家もあきらめた曲だった

ラフマニノフ交響曲第2番は作曲家もあきらめた曲だった

Posted July. 28, 2020 10:38,   

Updated July. 28, 2020 10:38

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よくクラシック音楽は流行がないと思うことがあります。大衆音楽は、毎週、毎日人気曲のチャートが変わりますが、クラシックは人気のある曲だけがいつも人気だと言われます。

その考えは常に正しいわけではありません。ヴィヴァルディの「四季」は、今日、世界のクラシックチャートで1位を総なめしていますが、第二次世界大戦以前は、大衆がほとんど知らない作品でした。1955年、イタリアの室内楽団「イ・ムジチ」がアルバムを出して、世界各地で演奏したことで最高の人気曲となりました。

ラフマニノフの交響曲第2番も、あまり演奏されませんでしたが、人気曲として浮上した作品です。1908年に世界に出ており、演奏するのに約1時間かかる曲です。マーラーやブルックナーの交響曲より長くはありませんが、初演後、「退屈だ」「形式が緩んでいる」という批判を受けてきました。

問題は、ラフマニノフの神経がとても繊細だということです。二十四歳の時に交響曲第1番を書いたときに悪評を受けると、神経衰弱にかかってしばらく苦労するほど、いわば「ガラスメンタル」でした。結局、交響曲第2番も彼はあきらめました。「指揮者が勝手に削って演奏してもよい」と宣言もしたんですよ。その後もこの曲を演奏する人はまれで、時にはでたらめに省略された形で演奏されたり、アルバムが出されたりするほどでした。

これほど避けられてきたこの曲の再発見に貢献した人こそ、指揮者・アンドレ・プレヴィンです。彼はロンドン交響楽団の首席指揮者だった1971年、この楽団を率いて旧ソ連とアジア巡回演奏に出かけました。モスクワ、レニングラード、東京、大阪、名古屋を経て、ソウル、香港へと続く日程でした。

ソウルでは、東亜(トンア)日報の主催で、市民会館(現在の世宗文化会館)でコンサートが開かれました。バイオリニスト・鄭京和(チョン・ギョンファ)がチャイコフスキーの協奏曲を共演しました。

この時、メインプログラムとして演奏された曲が、まさにラフマニノフの交響曲第2番でした。もちろん気に入った曲だから選んだのでしょうが、プレヴィンは、この巡回演奏でこの曲を続けて指揮しながら深く理解することになり、本当にこの曲を愛するようになったと言います。

2年後の1973年にはプレヴィンが、同じロンドン交響楽と共にこの曲をアルバムで発売して人気を集めました。その後、複数の指揮者がこの曲のアルバムを出し、削られて演奏されることはなくなりました。この曲を編集せずにアルバムとして出したのは、プレヴィンより5年前に、パウル・クレツキという指揮者が最初でしたが、この曲の人気に火をつけたのは、プレヴィンのアルバムでした。

1976年には人気がより一層高まりました。クリーブランド音楽院を出たエリック・カルメンという歌手が、この曲のテンポの遅い第3楽章の主旋律を編曲して、ポップソング「Never Gonna Fall in Love Again」(もう二度と愛すまい)として出したからです。カルメンは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第2楽章も、「All By Myself」という歌で脚色して、より大きな人気を集めましたね。映画「ブリジット・ジョーンズの日記」にも挿入された曲です。

ラフマニノフの交響曲第2番に戻ると、この曲はどこか、秋の雰囲気に満ちています。初秋、韓国の9月の日差しとでもいうのでしょうか。イ・ビョンウクが指揮する仁川(インチョン)市立交響楽団が、芸術の殿堂交響曲祭で8月6日、この曲を演奏します。米国の20世紀の作曲家・サミュエル・バーバーのヴァイオリン協奏曲をバイオリニストのヤン・インモと共演して、映画「プラトーン」の挿入歌で有名なバーバーの「弦楽のためのアダージョ」も演奏します。


文化専門記者 gustav@donga.com