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涙の原理

Posted July. 31, 2019 09:26,   

Updated July. 31, 2019 09:26

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「私は、死ねば何も知らないという言葉が我慢できない」。朝鮮後期の文人・沈魯崇(シム・ノスン)が書いた短い文「墓の隣に木を植えながら(新山種樹記)」の最後の文である。彼は31歳で死んだ同い年の妻を恋しがりながら、墓の前に木を植え続けると、死ねば何も知らないと人たちから引き止められたようだ。彼と仲の良かった弟の魯巖(ノアム)さえ、兄が哀悼の感情に過度に執着していると思った。彼は気にしなかった。彼にとって、死は消滅ではなかった。

沈魯崇が生きた朝鮮時代は、悲しい感情を文章で表すことはタブーだった。妻の死を過度に悲しむと、あざ笑われる時代だった。彼は時代を先駆けた人だった。彼は妻を失った喪失感と苦しみを表現することを厭わなかった。彼はおかずとして出てきたヨモギを見ても、妻を思い出して悲しみが込み上げ、その感情を詩に表現した。「私のためにヨモギを摘んだ人、その人の顔に覆われた土の上にヨモギが生えた」

彼は妻の死を哀悼した約50本の詩と散文を残した。その中で、涙の文は死への思いを集約して示している。

彼は、哀悼の対象が感応してこそ涙が出ると考えた。大声を出して泣いても涙が出なかったり、大声を出さなくても涙が出るのはそのためだと主張した。彼女の法要をする際に涙が出れば、法要をしたと感じ、涙が出なければ、法要をしなかったものと同じだと感じた。歳月が流れても同じだった。琴と笛の音を聞いたとき、机の上に書類が山盛りに積まれているとき、お酒に酔って正気でないとき、囲碁や将棋をする時、つまり、彼は悲しみとは全く関係のないときにはかない涙が流れるのは、妻の魂が感応した結果だった。それなら、涙は自分だけのものではなく他者のものでもあった。やや感傷的な面がなくはないが、これは彼が考える淚原、すなわち、涙の原理だった。懐かしくて心の痛い気持ちが届いて流れるのが、哀悼の涙だという意味だった。