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2013年版トンマッコル、鉄原の民統線村を行く

2013年版トンマッコル、鉄原の民統線村を行く

Posted July. 22, 2013 03:55,   

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明け方に降り出した雨は止む気配がなかった。白く澄んだ雲が山腹を覆い、濃霧が村にたちこめた。桐の向こうには赤いスレート屋根が並んだ。鼻を包むように堆肥の臭いが遠くからした瞬間、激しい雨のしずくが頬を打った。

そう。ここは感傷にひたる田舎の村ではない。民間人立ち入り統制区域(民統線)にある通称「民北村」。戦争の傷が癒えない「再建村」の二吉里(イギルリ)だった。

12日、行政区域では江原道鉄原郡東松邑(カンウォンド・チョルウォングン・トンソンウプ)に属する二吉里を訪れて驚いたことは2つ。民統線がこれほど近かったのかということだ。豪雨で渋滞に遭ったが、車で2時間で到着した。もう1つは、こんなに平凡なのかということ。村の入口の軍警戒所で身分証明書の確認を受けなかったなら、韓国のどこかの田舎と言われても疑わない風景だった。

「ここも人が住む所ですから」。国立民俗博物館のウ・スンハ学芸研究員は虚しげに笑った。ウ研究員は、民俗調査のために今年初めから村に常駐している。「最初はありふれた江原道の村でないかと心配したましたね。しかし、暮らしてみれば分かります。韓国戦争が終わって60年の歳月が流れても、傷が癒されたわけではありません。歳月で表に現れていないだけです」。

その言葉どおり、二吉里は決して戦争と切り離すことのできない場所だ。1945年の「光復」(解放)の喜びを味わう間もなく、二吉里は理念の混沌に包まれた。北朝鮮に編入された鉄原にはソ連軍が駐留した。平壌から指導委員がやって来て赤い旗を振り、純朴だった若い男性たちが腕章をつけて有産階級の追放を叫んだ。

日本による植民地支配時代に小学校教師を務めたキム・ヨンベ氏(88)は、「当時、金日成(キム・イルソン)主席が鉄原郡金化(クムファ)を重要な要地に考えていると聞いた。党が『熱誠部落』と言って力を入れた」と話した。衝突もあった。どこかに連れて行かれていなくなったり、命をかけて38度線を越える人も多かった。

韓国戦争が起こった時、村はむしろ静かだった。北朝鮮の土地だったのだから。戦争の恐怖を実感したのは、韓国軍が北進して1・4後退が起こってからだった。村は激しい戦闘の中、形も残らないほど破壊された。激しい戦闘があった「鉄の三角地」だったので、保存を期待するのは無理だった。老人たちは、「助かるために村を守る余裕がなかった」と悔しがった。

1953年7月27日に休戦協定が結ばれた。幸い、二吉里は韓国領土になった。しかし、民間人統制で縛られてしまった。住民は自分の村を遠くから眺めるだけだった。

立ち入りが許可されたのは、それから3年後。3人以上、自転車に移動しなければならず、赤い帽子をかぶった男性だけの「1日立ち入り条件付き許可」だった。1962年になって、農繁期の臨時居住が認められた。軍用トラックに乗って移動し、朝と夕方に軍隊の点呼を受けた。人が隠れやすくなるトウモロコシは栽培が禁止された。A氏(84)は、「1965年頃、梅雨の季節に北朝鮮から牛が流れきたが、それを『自由を求めて脱北した牛』と大々的に報道した時代だった」と振り返った。

村が再建村になったのは1971年のこと。再建村とは北朝鮮の宣伝村に対応して建てられた村だ。村長のキム・ミョンチャン氏(58)は、「軍事政権時代までは点呼があり、1990年代にも地雷爆発事故が起こるなど、苦しい時期もあったが、住民はゆっくり適応していった」と話した。

60年を持ちこたえた二吉里は、今では居住の満足度が非常に高い村に変貌した。今も夜間通行禁止といった不便な点もあるが、何よりも治安がいい。住民は戸を開けっぱなしで、鍵を持ち歩かない。軍の民間支援も円滑だ。イ・チュンヒ氏(52)は、「民北村が開放されると言えば、皆デモをするだろう」と言った。実際に、近隣のある村は数年前、住民の要請で民北村を解除したが、泥棒が現われ、住民の心は乱れた。

ここの住民に「安保」は特に意味はなかった。少し前までは北朝鮮の対南放送が聞こえたというが、南北関係は気にも止めなかった。政治問題にも関心がない。ある村の住民は、「戦争が起きてミサイルを撃てばソウルに飛んで行くだろう」と話した。

夕方、村を出る時、会館の屋上にある丹頂鶴の模型が目についた。昨年から始まった天然記念物丹頂鶴祭りのシンボルだ。休戦の60年は民統線を天の恵である自然の宝庫にした。住民たちは、村が安保の体験学習の場ではなく、生態観光地になることを望んでいる。