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「アルバニア系独立国」まだ夢の話

Posted July. 07, 2005 02:30,   

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6年以上国連の保護領(protectorate)であるコソボの西部ペイヤ地域。多くのアルバニア系と少数のセルビア系住民たちが共に居住していた同地域は、1998年のコソボ内戦と1999年の北大西洋条約機構(NATO)の空襲でほとんど廃墟になったが、国際社会の支援を受けて再建された所だ。

近隣のセルビアやボスニアに避難したセルビア系住民たちも、1人2人故郷に戻ってきて、国連平和維持軍の保護のもと、再び家を建て農業も始めた。

しかし、彼らは少数に過ぎない。約20万人のセルビア系住民たちがまだ戻っていない。悪名高いセルビア系の「民族浄化」やNATOの空襲後、ボスニア系の報復で悪化した両民族間の反目は、今も変わらない。アンソニー・トムソン国連行政官は、「セルビア系住民たちが自由に外出できるほど治安は安定したが、いつまで維持されるかは確信できない」と話した。

コソボ北部は両民族間の衝突と反目が以前と変わらず、昨年はコソボ全地域で3日間にわたって暴動が続いた。

セルビア国境付近のミトロビツァ地域は、イバル川を間にして北にはセルビア系、南にはアルバニア系と徹底して分離して暮している。さらに、国連機構の車でさえも、橋を渡る時には該当地域の人に運転手を変えなければならないほどだ。

「コソボの人々は毎晩、セルビア軍人たちがコソボに押し入る夢を見るという。セルビア系住民たちには良い夢だが、アルバニア系住民たちには悪夢にほかならない。」国連難民高等弁務官室(UNHCR)のイグナジス・マティ—ニ地域担当官の説明だ。

首都プリシュティーナも例外ではない。2日、都心のど真ん中で3件の連続爆発事故が起こった。コソボRTK放送のベトン・ルゴバ(30)記者は、「オルブライト元米国務長官のコソボ訪問2日前に起きた。これが何を意味するのか」と話した。コソボに友好的だった大物米国人の活動を邪魔するためのセルビア系のテロということだ。

実際に、コソボ・アルバニア系住民には米国が唯一の希望だ。コソボ空襲を断行したクリントン前大統領はコソボの英雄になった。プリシュティーナの都心に向かう路は、「ビル・クリントン路」と命名され、高層建築物の外壁には彼の大型写真がかかっている。

コソボ地域のどこに行っても、「コソボ独立、バルカンの平和のための唯一の道」というステッカーがあちこちにはってある。セルビア系から、あらゆる迫害と差別にあってきたアルバニア系にとっては、当然の主張でもある。

しかし、周辺国の見方は違う。まず、セルビアが容易には領土を明け渡すはずがない。ドイツの政府機構であるTHWの職員であるクロアティア出身のジジャ・ジョビチ(30、女)さんは、「外国の支援がなければ生計さえ立てることができない人々が、どのようにして自ら政府を作ることができるのか」と述べた。

実際、コソボの失業率は62%に達し、人身売買や組織犯罪が横行している。現在、コソボに居住する人口は220万人だが、半分に達する約100万人が金を稼ぐために外国に流れている。果たしてコソボ問題の解決策は独立だろうか。国際社会が今後悩まなければならない、簡単ではない宿題だ。



klimt@donga.com