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忠武公・李舜臣将軍は「咸鏡道日記」を書いてない

忠武公・李舜臣将軍は「咸鏡道日記」を書いてない

Posted April. 05, 2005 23:08,   

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忠武公・李舜臣(チュンムゴン、イ・スンシン、1545〜1598)将軍が咸鏡道(ハムギョンド)で陸軍将校に書いたものと伝えられる1ページの「咸鏡道日記」は、李舜臣の日記ではないことが5日明らかになった。「李舜臣評伝」を執筆中の作家宋友恵(ソン・ウヘ)氏は、「咸鏡道日記」は李舜臣と同時代の鶴峯・金誠一(ハクボン、キム・ソンイル、1538〜1593)が咸境道の巡撫御史時代に書いた日記「北征日録」中の一部を「乱中日記」の草体に写したものだということを明らかにした。

この文書は1972年に発刊された『鶴峯全集』内の「北征日録」の宣祖(朝鮮時代・第14代の王)13年3月18日付け(507ページ)日記と数文字しか違わず、内容がほとんど同じだ。

特に、日付と干支が「十八日 丁巳」から「八日 丙戌」に変わった。宋氏は「これによって日記が書かれた年度が宣祖13年(1580年)から宣祖16年(1583年)に変わったが、これは李舜臣が咸鏡道で勤めた時代に操作するためのもの」と話した。

この文書は、詩調詩人の鷺山・李殷相(ノサン、イ・ウンサン、1903〜1982)と漢文学者である李家源(イ・ガウォン、1917〜2000)前成均館(ソンギュングァン)大学教授が1967年李舜臣の親筆日記を利用し考証しており、書誌専門家の李鍾学(イ・ジョンハク、1928〜2002)氏が1999年忠清南道牙山市(チュンチョンナムド・アサンシ)にある顯忠祠(ヒョンチュンサ)に寄贈して、現在こちらに展示されている。

しかし、誰がどんな目的でこのような操作をしたかは、まだ明らかではない。

「鶴峯全集」の編纂に参加した民族文化推進会の李佑成(イ・ウソン)理事長(学術院会員)は、両資料をすべて検討した後「だれが見ても乱中日記の字と同じく見え、鷺山も選り分けられなかったようだ」と話した。



klimt@donga.com