一昨日のサッカー・ワールドカップ(W杯)の8強進出への劇的な勝利は、国民の感動から沸き上がるエネルギーが、いかに爆発的なものであるかを克明に見せつけた。政治の要ていも、まさに国民を感動させることではないだろうか。しかし、6・13地方選挙後に政界で起こっている場面は、古いフィルムを巻き戻しているかのようだ。ハンナラ党は、おごっていては民心が離れる恐れがあるため、言動に慎重になり、民主党は惨敗責任論をめぐって内紛の様相を呈している。なかでも民主党では、大統領選候補の再信任論や、候補の再予備選挙論も飛び出している。一般国民が、なぜ今になってこのような困難な政治問題に直面しなければならないのだろうか。
地方選挙が投げかけた痛烈なメッセージは、選挙は候補間の争いではなく、より誠実に民心を求め、感動させることができるかで勝敗が決まるという点だ。この点で、すべての政党は事実上敗者である。それは、相手を中傷する誹ぼう合戦が、結局有権者に受け入れられなかったことや低い投票率、情けない政党支持率で明らかとなった。このような状況で、果たして誰が勝ったと自慢できるだろうか。広域自治体議員の比例代表政党別の全国得票結果を見てみよう。ハンナラ52%、民主29%、民労8%、自民連6%だ。一見するとそれらしいが、内容は惨たんたる水準だ。約3400万人の有権者のうち、投票率は半分にも及ばない48%だった。従って、全体有権者から得た支持率は、どの政党を問わず貧弱であるとしか言えない。ハンナラ党は、有権者10人のうち3人の支持も得られず、民主党も2人にも及ばなかったわけだ。
民心がこれほど冷たく厳しいのに、地方選挙終に、政党からは当選者に花束が送られた。地方選挙を大統領選挙過程の世論調査程度に考えているような印象さえ受けた。
大統領選挙の戦略が他にあるのではない。
分かりきった話だが、大統領選挙で最も恐れるべき相手は、ライバル候補やライバル政党ではなく、有権者であり国民だ。この点を正確に見抜く候補に勝利の機会がある。相手の誹ぼうに対抗して泥沼の闘いをするのではなく、その時間と努力で民心を感動させることだ。勝利の機会はそこにあると言っても過言ではない。地方選挙で、相手方への攻撃に有権者は冷やかであった。大統領の息子の不正などの権力腐敗に対しては、候補が唱えるからではなく、国民の憤激が許さなかったという点を念頭におく必要がある。民心を適当に言いくるめようとしてはいけない。もはや、有権者達は大きく変わった。複雑な心理構造や利害関係にも徹底した「政治商品」の消費者であることを忘れてはいけない。
政権獲得の決心を固める前に、政権獲得の準備ができているかを自ら点検することが急務である。ここにきて、きれいごとを言っていると笑うかもしれない。しかし、その過程を経れば経るほど、勝利の機会はさらに大きくなるのだ。
まず、多様な社会構成要素を受け入れる用意があるか、つまり多義性への余裕があるかを点検する必要がある。一見、あれもよくこれもいいというやり方は、あいまいであると思うかもしれないが、大統領選挙で切実なことはまさにそれである。大きな家を建てる場合、敷地も大きく確保しなければならない。従って改革や反改革、進歩や保守といって上下左右に線を引き、誰はよくて誰はいけないと突き放すことは、大統領候補の指導力ではない。
政治指導力のさらなる根幹は、国民を感動させる力だ。W杯が見せたように、人は自信を持ち、自尊心を取り戻した時に感動する。地方選挙で明るみになったことは、まさに国民感動の欠乏である。民主党はもとより、より大きくなったハンンナラ党は、積極的な国民感動の法を備えているかどうか確かめてみることだ。権力腐敗への戒めをいつまで期待することはできない。その具体案を探すことこそ、大統領選候補の最も大きな課題なのだ。選挙熱風は、まさにここから起こらなければならない。民心を感動させてこそ政治が生きるのだ。
崔圭徹(チェ・ギュチョル)論説主幹






