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[オピニオン]「パークビュー」に映る権力のごう慢

[オピニオン]「パークビュー」に映る権力のごう慢

Posted May. 20, 2002 09:25,   

寝て目が覚めれば、新たな事件が新聞の朝刊の一面を飾る。最近のように大事件が頻繁に起こると、国民は少々の事件には無感覚になる。

しかし、感覚が鈍っても何気なく見過ごすことのできない事件、それが盆唐(ブンダン)パークビュー事件である。この事件は、掘り下げていけばいくほど疑惑が大きくなり、明るみになる事実が国民を当惑させる。どうして一政権の終わりに近づくと一様にこのような事件が起るのか、不思議でならない。

歴史は繰り返されるものなのか。過去の事件から得た教訓は無用の長物か。しかし、その内面をのぞいてみると、不動産にひときわ執着する韓国人の属性で起こり得る事件、そんな部類の事件がパークビュー事件なのかもしれない。

このようにパークビュー事件は、国民の住居・生活に密接にかかわる事件であるため、国民の関心から消え去ることはできない。パークビュー問題の表には分譲の特恵供与があり、その裏には土地用途変更の疑惑が影を落としている。

このような疑惑が多様に集結したのが、パークビュー事件だ。しかし、国民はここでもう少し問題の本質に近づくべきである。

この事件の最も大きな問題は、憲法が定める国民の共同体秩序を一気に崩し得る要素を内在しているという点である。事前分譲など各種の分譲特恵供与疑惑は、秩序を守るということがいかに虚しく、公正な競争がいかに見せかけだけの偽善であるかを露わにした。人々はここで信頼という価値をそう失する。国民はもつ者の力の前で、うまく利用され、せん方なく崩れ去る法秩序の「暗」の部分を目にする。国民の信頼を得ることができない法は無用の長物であり、国家は決して正常に機能することはできない。

この事件で、施工会社は無論、国家機関や地方自治体ではない。従って、建前では国家に責任を問うことはできない。国家は不正が明らかになる場合、与えられた権限内で法で罰すればいい。

しかし、果たしてそうだろうか。マンション分譲をめぐるこの事件が、単純な個人企業と個人の違法行為による問題であろうか。これまで国民は、どれほど多くの不動産投機事件に巻き込まれたことか。不動産と関連した事件には、常に公共性がかかわっているのだ。

韓国憲法は、個人の財産権の行使に公共の福祉を強調している。また、国民の快適な住居・生活のために国家に住宅政策開発の義務を課している。国民の住居・生活への権利は、人間らしい生活のための必須条件だ。だからといって、国民が国家に無条件に住宅建設を求めることができるわけではない。

しかし、憲法の規定は、国家にそれ相応の努力を注文する。憲法に明記されている国民の権利は、規定されたものだけでも保障されなければならない。しかし、昨今の現象は、憲法の権利規定がいかなる意味をもつのか、改めて考えさせる。

パークビュー事件のもう一つの姿は、国民の基本権を無視して、憲法の規定を形骸化させる国家権力のごう慢が隠れているということだ。国民をぎまんして便法が日常化するところに、正義は存在しない。法治国家が追求するのは正義であり、正義を否定する社会では社会的正義は存在しない。

国民は今、今回の事件を扱う司法当局のやり方に注目している。国民は、真実を暴き、厳正な法の適用と執行を憲法の目で監視しなければならない。これとともに、今回の事件をきっかけに、再びこのようなよからぬ事件が起こらぬよう、制度的装置を補完しなければならないだろう。

なかでも、行政当局のし意的な法解釈を可能にする不動産関連法規の不透明な規定の整備が求められる。これらも、明確を原則とする法治国家の要請である。

決して長いとは言えない50年余りの憲政史で、法治国家を成立させることは容易ではない。結局パークビュー事件は、韓国法治国家の自画像と言えよう。

もはや国民は、国家権力の正当性の源泉として、その監視者にならなければならない。さもなければ、絶えず発生する不法と不正の前に、憲法は単なる飾りとなり、法治国家は崩壊するだろう。

憲法は国民の合意で作られた法文書だ。誰かに言われなくても守らなければならない国民の約束である。これ以上国家の最高法秩序に恥辱の影を落とさせない。それが、国民みなが渇望する法治国家への道である。

キム・サンギョム、東国(トングク)大学教授(憲法学)