政治家が最も好んで使う言葉の一つが「国民」だろう。KS表示が、韓国の商品の品質認証に使われているように、政治家は自分の政策が、正しくかつ正当だという表示として、常に国民を口実にする。
しかし、どんな政策であれ、国民から一致した認証を受けることは難しい。独裁国家では、物理的手段を動員してでも「国民の認証」を受け取るだろうが、韓国のような多元主義社会では、それが不可能なのだ。その代わり、政治指導者の能力を判別するのは容易である。多様な国民の意見をいかに調和を保ちつつ調整をとって行けるかが、まさにその物差しとなる。どんなに執着と熱情を持って声高に訴えても、ついてくる者が少なければ、彼は少数のための政治指導者にすぎないのだ。
先日、金大中(キム・デジュン)大統領が「これからは国民を相手に政治を行なう」と述べ、議論を呼んだ。単純に考えれば、金大統領はごく当然のことを言ったように見受けられる。民主国家であれ、独裁国家であれ、政治の相手はどのみち国民だからだ。そのうえ最近は、マスコミの発達で、大統領が街角や執務室で数人の国民に会っただけで、国民全体を相手にしたかのような政治的效果をあげることができる。マスコミを利用する21世紀版直接民主主義は、これからもさらに人気を集めることだろう。
しかし、金大統領の言葉の中には、釈然としない論理が潜んでいるようだ。金大統領の「国民を相手にする」という言葉は、林東源(イム・ドンウォン)前統一部長官の解任問題が、自民連のためにやむなく国会票決に傾いた頃、初めて飛び出した。大統領府側は、金大統領の言葉に対して「林長官の解任で太陽政策が一時的な困難に陥っても、国民の支持をバックにこれを推進する」という決意を見せたものと説明した。
そのため一部からは、太陽政策に関する限り、大統領は与小野大となった国会をこれ以上相手にしないという意味ではないか、という解釈まで登場した。金大統領が本当にそのような意思を持っているのだろうか。連立政府の一つの軸であった自民連が、背を向け引揚げる様子を見つめる金大統領の心境は、理解に難くない。だからと言って、大統領が国会を相手にしないとすれば、それは議会民主主義を放棄するのも同然だ。あってはならない独善であり、強がりとしか言いようがない。
太陽政策を進めるために国民を直接相手にするという言葉そのものにも、論争の種が潜んでいる。国民とは、端的に言って、国家を構成する個人或いはそれ全体を言う。現在、国民全体が太陽政策を全面的に支持しているというわけではない。かなりの部分を補完して修正しなければならないというのが多数の意見だ。それが林長官の解任決意に反映された民意なら、金大統領が太陽政策をそのまま推し進めるために、直接相手にするという国民はどういう国民であろうか。多数の国民なのか、それとも統一への熱情だけに浸っている一部の国民なのか。
特定組織や階層または階級だけを支持基盤とする政治指導者は、結局失敗した政治指導者として落ちぶれるということが、前世紀の教訓だ。彼らはいずれも、自分の支持勢力の中でのみ安住したため、国民全体を見る調和とバランス感覚を生かせなかったのだ。
今の金大統領は、太陽政策の誤った部分に対する批判をどれほど真剣に受け止めているのかはわからない。韓国社会に理念的な葛藤と対立の溝が、これほど深まった最も大きな理由の一つは、政府が「太陽」だけにあまりにも執着しすぎたからだ。「陰」を主張する人々の意見を疎かにしたからだ。金大統領は、太陽政策の「太陽」だけを強調する国民だけでなく、太陽政策の「陰」を指摘する反対の声にも耳を傾けるべきだ。「太陽」と「陰」を賢明に調和させるリーダーシップを発揮しなければならない。
今日から開かれる南北閣僚級会談は、金大統領のそのようなリーダーシップを見極められる格好の機会となるだろう。「太陽」だけを議題とするのではなく「陰」に対しても率直な話がなければならない。民族だの同胞だのと感情だけに浸るよりも、冷静に南北韓関係を省みる時間も持ってもらいたい。多数の国民が、今回の会談で韓国側がどうしても言わなければならない、しかし、北朝鮮側には耳が痛いかもしれない話が、どれだけ取上げられるか見守っている。
ナム・チャンスン論説委員
chansoon@donga.com






