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[オピニオン]南北交流、焦らずに

Posted August. 18, 2001 10:32,   

昨年の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との南北首脳会談以降、韓国社会では、「南北和解の時代における南南葛藤」という言葉がささやかれている。北朝鮮が果たして変化するかどうかに関する議論、「援助一辺倒」への議論、国家保安法の改廃議論など、南南葛藤は半世紀以上続いている「対立と葛藤の南北関係」を、「和解と協力の南北関係」に切り替える過程で避けて通れない葛藤かも知れない。

現在、議論されている多くの葛藤のうち、相当部分は経験しなくてもよいものまでもが含まれている。イデオロギーの違いによる観点の差から生じる葛藤は、多元主義の社会ではあり得ることだ。だが、少し相手を思いやれば、最初から避けられる葛藤もある。手続き上の問題から深まった葛藤は、政策決定と執行過程で発生したもので、その責任は政府当局にあると言えよう。

平壤で行われた「南北民族統一大祝典」と関連した葛藤は、すでに予測されていた。「祖国統一3大憲章記念塔」の前で行われるという象徴性のために、北朝鮮の統一戦線戦術に巻き込まれる恐れがあるという指摘があった。政府は、北朝鮮が行事の会場を変更しなければ出席を認めないという立場を明らかにしていた。しかし、当局間対話が断たれた状態で、民間交流まで行われていないことに対する負担と、参加不許可の措置が今後の南北関係に悪影響を及ぼす恐れがあるという理由などで、8月14日午後遅く電撃的に訪朝を許可した経緯がある。

しかし、一部の団体の参加者らが、「記念塔付近の行事には参加しない」という約束を破って行事参加を強行したことが問題になった。北朝鮮では平壤という都市自体が、いわゆる「革命の街」でもある。至るところに、革命と関連した記念物と個人崇拝物が設置されている。よって、こうした場所を避けて行事を行うのは困難だ。

南北間にはいまだに、イデオロギー競争と敵対関係が完全に解消されていないため、北朝鮮内での行事会場と性格如何で、行事参加自体が北朝鮮の主張を受け入れるかのように誤解されることもある。一部の参加者らは、団体の代表が書いた覚書の内容を知らされていないまま「政府が記念塔付近の行事に参観することを認めたいうことで訪朝を承認した」と思い込み、「数万人の平壤市民が照り付ける日差しの中で立っているのに、統一を呼びかけに来た人たちが、彼らを待たせることができるのか」と主張し、行事参加を強行したという。一部は覚書を書き、また推進本部側が平壤に来て参加不許可の立場を決定したことを分かっていながら参加したという。こうした混乱が生じたのは、代表団が約200の団体で構成され、推進本部側がまともに統制できなかったからであろう。

代表団を構成している団体が多く、統一運動をリードしてきた人々が大勢参加したということから、混乱は予測されていたと言える。しかし、代表団の構成団体が、事前に集まって訪朝日程について十分に協議しなかったこと、またこれをきちんと指導できなかった政府は、その責任を免れることは難しい。

私たちは南北交流が盛んにならなければ、相互理解の幅は広がらないと考えてきた。しかし、実際に南北交流が行われる過程で、イデオロギーと体制の違いなどから誤解と混乱が生じている。

中には、実定法にこだわらず平壤入りして統一運動をしたために、獄中生活を送っている人もいる。黄鉊暎(ファン・ソギョン)氏と林秀卿(イム・スギョン)氏もその中に入る。特に、林氏は国家保安法を違反して北朝鮮入りし、北朝鮮で「林秀卿ショック」を呼び起こした張本人である。韓国の元気な女子大生が北朝鮮で自由な行動を取ったことで、韓国社会の自由な雰囲気を北朝鮮に伝えたというのだ。国家保安法を違反した人が北朝鮮社会の対韓国認識を変える役割をしたという、歴史のアイロニーをじっくり考えてみるべきだ。獄中生活をした林氏と黄氏が北朝鮮を再び訪問したという事実に対して、北朝鮮の住民はどう考えるだろうか。多分、北朝鮮では想像しがたいことに違いない。

南北間の体制競争時代には、常に北朝鮮の「対南赤化の野心(韓国を共産主義化しようとする陰謀)」を警戒してきた。韓国の体制が劣勢の時代だった1950年代と1960年代には、南北対話と交流自体を北朝鮮の対南統一前線戦略の一環とみなし、警戒したりもした。もはや、韓国の体制の力は、北朝鮮をはるかに上回っている。今は、一連の南北交流が「逆統一前線戦術」としてはたらくことを認識し、忍耐強く南北交流を見守ることが必要な時点に来ている。

高有煥(コ・ユファン、東国大学北朝鮮学教授)